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サティを入れる | 人間の認識のプロセスを原始仏教が説明

サティを入れる。

「サティを入れる」とは「意識的に客観的に気づく」ということだよー。「サティ」はパーリ語で、和訳は「気づき」。英訳は「マインドフルネス」だよー。

ヴィパッサナー瞑想には、マハーシシステムやゴエンカシステムなどがあるよー。世界中で最も広まってるのはこのふたつだよー。

マハーシシステムではサティを入れるのにラベリングという技法を使うよー。ラベリングとは自分の心や体の状態を客観的に捕らえて言語化することだよー。

例えば、考えていることに気づいたら、そのことに意識的に客観的に気づいて、その一瞬後に「思考」とか「考えた」とかラベリングするよー。

マハーシシステムで「サティを入れる」というと、「意識的に客観的に気づいて、ラベリングすること」を言うよー。

原始仏教では人間の認識のプロセスを以下のように説明しているよー。

対象→六門→識→受→想→尋→行

対象とは認識の対象のことだよー。

六門は下記の6つの感覚器官のことだよー。
・眼門(げんもん)- 視覚。
・耳門(じもん)- 聴覚。
・鼻門(びもん)- 嗅覚。
・舌門(ぜつもん)- 味覚。
・身門(しんもん)- 触覚。
・意門(いもん)- 原始仏教では、頭の中に浮かんだイメージや言葉を捕える器官が存在していると考えていて、それを意門と言うんだよー。

識は意識のことだよー。

対象と六門と識が触れ合って、受(感受作用)が生まれるよー。受には楽受苦受、不苦不楽受があるよー。感受した対象を概念化するよー。頭にイメージが浮かぶよー。これが想だよー。例えば、カラスの声を聞いた時、まず、何か音がしたと判断するよー。これが想だよー。次に、「その音はなんだろうと?」と、その音にフォーカスして対象の中身を探るよー。その結果、カラスの声だと分かるよー。これが尋だよー。次に、カラスの声を聞いたことに対する反応をするよー。たとえば「カラスだー。嫌だなー。」とか。これが「行」だよー。行は業(ごう)だよー。反応だよー。「カラスだー。嫌だなー。」という思考は「怖いなー。ゴミを漁るのが嫌だなー。そういえば明日ゴミの日だなー」とか、どんどん連なっていくよー。思考は連鎖して連なっていくよー。思考の連結車両がどんどん連結されていくよー。

そこで

サティを入れて、この思考の連鎖を断ち切ろう。思考していることに意識的に客観的に気づいて、思考の連鎖を断ち切るよー。思考の後続切断。対象→六門→識→受→想→尋→行とあって、行まで認識のプロセスが進んだ後に、サティを入れたという話だけど、もっと早くサティを入れることが出来るよー。普通の人は、大体、想の段階でサティを入れることが出来るよー。カラスの声を聞いたら、「音」とサティを入れるよー。想の段階でサティが入らなくても、尋の段階で入れるよー。尋の段階でサティが入らず、思考がつらつらと始まったら(行の段階)、「思考」とサティを入れるよー。

こうしてなるべく早い段階でサティを入れていくよー。こうしてサティを入れて後続切断を行うよー。思考の連鎖や妄想を断ち切ろう!

歩きの瞑想でサティを入れるよー。足裏の感覚にサティを入れるよー。意識の100%が足裏に集中すると、雑念や思考、妄想を意識しないよー。意識が思考に逸れたら、思考にサティを入れるよー。そうやって歩きの瞑想を行うよー。

人間は自分の都合で勝手に対象を解釈して、歪曲して捕らえているよー。対象をありのままに見ていないよー。現実をありのままに見ていないよー。じゃあ、何がありのままの対象か?何がありのままの現実か?それは知覚しただけの対象だよー。

「カラス嫌だなー」とか思うのはこれは人間の都合で勝手に解釈したことだよー。カラスを見て、それを獲物だと思う肉食動物もいるよー。「カラス」という存在がいて、その存在を人間が認識して、人間の主観のフィルターを通して、「カラスが嫌だ」と思ってるだけだよー。

別にカラスは嫌なものでもなんでもありませんよ。肉食動物にとっては美味しい獲物ですよ。人間の都合で現実を捻じ曲げて解釈しているから、「カラスは嫌なものだ」というのは、その人の妄想ですよ。現実をありのままに捕らえていませんよ。現実のカラスは「嫌なもの」ですか?それとも「美味しい獲物」ですか?単にカラスの声が聞こえただけではないですか?それを「カラスの声、嫌だなあ」とか考えて、妄想してるだけではないですか?「カラスは嫌なもの」というのは妄想ですよ。パーリ語でパパンチャですよ。

人間は対象を知覚した瞬間、価値評価や判断を加えて捏造しているのです。

歩きの瞑想では現実をありのままに捕える。知覚した対象をありのままに捕らえ、そこから思考や妄想を発展させない。知覚と妄想を区別する。

知覚と妄想を区別する。

対象を認知するに留める。カラスの声を聞いたら「音」とサティを入れる。音を知覚しただけだから・・・。その音が「カラスの声」だとか「嫌だ」とか考えが発生する前にサティを入れる・・・。「音」や「聞いた」とサティを入れる。認識のプロセスが進み、「嫌だなあ」と考えが始まったら、その段階でサティを入れる。「思考」「妄想」など。

知覚しただけで、そこから思考や妄想を発展させていないなら、知覚しただけだよー。「見た」「聞いた」だけだよー。瞑想が深まってくると、「雪」を見た時に、「雪」という概念が生まれる前にサティが入るらしいよー。雪を視覚で知覚した瞬間、サティが入らないと「雪」→「綺麗だ」とか認知のプロセスが進んで、思考が生まれるけど、雪を視覚で知覚した瞬間、サティが入ると、「雪」という概念が生まれないらしいよー。想より前の段階でサティが入ってるんだよー。今の私はここまでは出来ないよー 笑

知覚と妄想を区別する。

この辺りのことをもっと説明したい。知覚した瞬間、サティを入れることが出来れば、知覚してから思考や妄想に発展することはないと言いたい。歩きの瞑想では、足裏の感覚にサティを入れ続けることによって、思考や妄想が発展しないようにしている。後続切断だよー。



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