真心を届けることがいつだって正しいとは限らない、それでも人は真心を持つ
真心を持ち、それを渡すこと。
そういうことを胸に秘めながら、
いつ終止符を打つか分からない私の命の歩みを進めている。
ほんの些細なことでいい。
例えば、困っている人がいたら声をかけて助ける。謝らないといけないことがあるなら目を見てきちんと謝罪する。あるいは、「お疲れ様」と声をかけてくれる駅員さんに今度はこちらから「いつもありがとう」と言ってみても良いかもしれない。
実は去年と一昨年は散々な年だった。
"人間が人生を終える瞬間"というものを、これでもかというほど見届けてきたからだ。
祖母が10人兄弟ということもあり、なおかつ祖母の家にその兄弟たちがしょっちゅう集まっていたりして、祖父母の家が近かった私は生まれた時からずっと誰かしらの大人に囲まれた環境で育ってきた。
そんな中、昨年続け様に兄弟の内2人が癌で天国へ旅立った。
病院に入ってからもビデオ通話をしたりして「元気になったら会いに行くから家で待っててな」と最期まで言っていた。
本当は病室まで会いに行きたかった。体調が悪くなったと知った時も、連絡を送りたかった。
…でも、そうしなかった。
「会いに行くから」と言った気持ちは、
きっと、
"弱ったところを見せたく無い"
だと思ったからだった。
そしてもう一つ。
それは突然のことだった。
バイトの帰り道、偶然初恋の人と遭遇した。
彼とは通っていた塾が同じで、今思い返しても中学生であんなに大人びた人は彼しかいないと思うほど正義感に溢れていて、それでいて周りからも信頼される。そんな人間性に惹かれていたんだと懐かしい気持ちでいっぱいになった。
そんな彼と偶然にも再会したことに私は完全に舞い上がっていて、そして思考は停止し緊張していた。
とにかく何か話をしないとと思い、私たちが通っていた塾で特に親しかった先生の話を出した。
「M先生、元気なんかな?」
…返答がなかなか無かった。
「今な、病気ぶり返して入院してるねん。かなり痩せてもうててさ。…でも今すぐどうなるとかじゃないから、元気やで」
中学を卒業して大学に入学する前に、私は友人とM先生の元を訪れたことがあった。
その時のM先生はスラッとした姿になっていて、「ダイエットしてんねん」と言っていていつもと変わらない様子で私たちを笑かして、また会う約束をして…。
M先生になぜこんなに思い入れがあるかというと、高校受験の時にある事件が起こったからである。
通っていた塾では、進学校のある程度決まった枠でしか高校を選ばないとあまり歓迎されなかった。
そんな中、その枠外の高校にどうしても行きたかったがほとんどの先生に却下されていた。
「やっぱりみんなが言うような高校を受験するべきなんかな…」と思いながら教室を後にしようとした時、ガラガラと扉を開けて入ってきたのがM先生だった。
「お前のやりたいことをやれ。行きたいところに行くべきや。俺が応援したる。」
それだけを言って教室を後にした。
M先生の応援もあって力が湧いた私は、猛烈に勉学に励み上位の成績で志望校に合格することができた。
そして、合格発表にはM先生の姿が。
本当は私の合格発表には来てはいけないのだが(塾が指定している高校ではなかったため)
「お前の力や」
と言って一緒に喜んでくれた。
私とM先生の間には強い絆がある。
だから、M先生の体調が優れていないと聞いて"連絡をしようか" "会いに行こうか"
と悩んだ。
いつも、信じていることがある。
『真心は届く』
ということだ。
してもらったことはそれ以上のことを返すし、M先生には返しても返し切れないほどの温かい真心をもらってきた。
それなのに、私は親戚の不幸が近づいていた時と同様に何もしないままで今もいる。
M先生は「ダイエットをしている」といって、
体調が悪いことを私たちに知られないようにしてくれていたのに、数年後の今になって連絡をしていいものなのか…。
真心だと信じきっているものが、時には誰かにとっては鋭い刃物のような武器になってしまう時だってある。
自分が大切にしている信念や習慣が、自分以外の人には通用しない時だってある。
そんなことを改めて考えさせてくれたこのお題に感謝なのである。
〜p.s.〜
わたしはきっとこの先もM先生には連絡をしない気がする。
それでも、心の中でいつも思い出している。
#習慣にしていること
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