さよなら、生徒1号
うちの絵画教室がまだ看板も出していない頃、あ、今も出してなかったわ。とにかく始まってなかった頃、ブログにゆるーく絵の生徒を募集しはじめますよ。という記事だけ出してはいたが、来る日も来る日もだれからも問い合わせは来ず、閑古鳥が鳴いていた。
あるクリスマスも近い日、近所のとあるお母さんから電話が入り、八歳の女の子が一人で体験にやってきた。
嬉しくて嬉しくて、体験レッスンの準備も念入りだった。棚からいろんな画材を出してきて、椅子の高さを調整して。
うちの自慢の大きなクリスマスツリーを、画用紙にクレヨンで描いて、バチックで水彩絵の具を塗り、乾かないうちにその子と二人で塩を撒いた。すると、塩が水分を吸って、雪の結晶のような模様を作り出す。
わあー、と、女の子が控えめにおどろく。
額縁もつけて、たくさんかざりも貼って、楽しかったと言って帰っていった。
その後すぐ、私は出産で四国へ帰って、数ヶ月東京に戻らなかった。
クリスマスが過ぎ、年を越し、節分にバレンタインに雛祭り。そしていつしか桜も咲き、私は赤子を抱いて、東京に戻ってきた。
梅雨のある日、例の子のお母さんから、絵画教室の募集は再開してませんか?と、やわらかい口調で問い合わせのメールが来た。
0歳児を抱えて初めての絵画教室を出来るのだろうか。不安しかなかったので、初めは、教室をやりたいけれど、赤子をおんぶしながら、うまくできるか分からないので、とりあえず遊びに来てみてください。と答えた。
そうしてその女の子は、手に赤ちゃんへのプレゼントを抱えて、本当に遊びに来てくれた。
私は、何ヵ月も待たせたのに、再び絵を教えてくれ、赤ちゃんがいてもいいから、と言ってもらえて本当に嬉しかった。
それで、その子とお花を描いたり、石を拾ってきてジオラマを作ったり、一対一で絵や工作をして遊び始めた。
なんとか大丈夫そうということで、6000円の月謝も頂くことになった。長いブランクがあって、久しぶりの収入で、その6000円は私にとって60万円くらいの価値があり、もったいなくてとても使う気になれなかった。しかしそのうち、こどもが人見知りするようになり、ギャーギャー泣くようになった。
何があっても絵画教室を続けたかった私は、もらった月謝をそのままベビーシッター代に使って、絵画教室を続けた。いや、シッター代には数百円足りていなかった笑。
仕事すればするほど赤字の絵画教室。
時が経ち、
じわりじわりと小中学生の生徒が増え始め、一年後には7人になった。大人も合わせれば10人だ。
その後いろんなことがあって
家族とのトラブルで家を出て、仕事場を借りたり、
生徒も増減を繰り返し、うまくいかないこともたくさんあって、
自分は全然ダメだ、と思うことも多々あった。
でも
生徒第1号であるその女の子は涼やかな顔をして雨の日も風の日も通ってきた。
もともと頭の良い子だったんだろう、
話をよく聞き、絵の具の扱いをすいすいと覚えた。10歳の今しか描けない、素直で爽やかでそよ風のような、でもどこか哀愁漂うような絵をたくさん描いて、12歳になる頃には、彼女の画風はある意味完成されていた。そうか、美大なんていういやらしいとこを目指さずに、若くして絵を学んでいた子って、こんなそよ風のような絵を描けたりするのか。なんて思ったりした。
画家になりたいなんて言ってた時もあったけれど、他の大勢の子がそうであるように、絵以上に勉強が得意であったため、
中学に入学すると同時に、絵画教室は卒業することとなった。
私は誰よりも始めに来て、
そして誰よりも長く通ってくれたこの12才の女の子に敬意を表して、
入学と卒業おめでとう の 小包を贈った。
アルフォンス・ミュシャの塗り絵とポストカードだ。
さよなら、またね。
好きなように自由に、寄り道しながら、歩いていってほしい。