スーパーファミコン
子供の頃に買ってもらえなかったものに対する執着心。この現象に名前があるのかはわからないが、私にはそれが強く根付いている気がする。
たとえば、私の少年時代にはファミコンからスーパーファミコンへの世代交代があり、同級生がスーパーファミコンで盛り上がっている中、我が家では購入が認められず、私は一世代前のファミコンをやり続けていた時期が何年かあった。
もっとも、これにはメリットもあって、世間がスーパーファミコンに夢中なため、一世代前のファミコンのソフトは安価で購入できたり、友人から不要になったソフトを譲り受けることもそれなりにあった。
しかし、多感な少年時代に「持っていないとクラスの話題に入れない系アイテム」がなかったことのハンデはやはり大きい。いや、正確に言えば、そのハンデがどれほどだったかを判断すること自体難しいのだが。
スーパーファミコンを持っていた少年少女たちしか当時の真の価値は理解できないだろうし、仮に今、2024年に全財産を投じてスーファミのソフトや周辺機器をすべてコンプリートし、「我こそがスーパーファミコンの全てを知る者だ!」と宣言したとしても、「1990年当時にスーパーファミコンを持っていなかった」という過去は変わらない。
この傷は、まるでスーパーファミコンのアクションゲームで「ここが弱点ですよ」と表示されるボスのようなウィークポイントとして、色濃く残り続けるだろう。
そんな「敗者」としての経験があるせいか、最近では気になるガジェットやホビーには財布の紐が緩くなりがちだ。思い返せば、昨年買ったiPadもほとんど使わないまま充電切れで放置しているし、今は通勤中にPCゲームをしたくて、持ち運び可能なポータブルゲーミングPCが気になっている。
これらは単に飽きて放置しているわけではなく、どれも活用したいのだが、時間と手が足りていないのが原因だと思う。むしろ、モニターと向き合う時間が長くなりすぎていて、最近はデジタルデトックスの時間も増やしたいと考えていたところだ。
何が言いたいのかわからなくなってきたが、今、気になるアイテムを手に入れる欲望は、きっと「スーパーファミコンを買ってもらえなかった」という原体験から生まれた反動だろう。
この「業」のようなものは理解していても簡単には消えないので、うまく付き合っていくしかないのだ。
つまり、本当に必要でないものを衝動買いしてしまっても、それは私の中の少年時代がポチったのだと思って、軽く受け流してやりたい気もする。
とはいえ、子供の頃に何でも買ってもらえていたら、どんな大人になっていたのか想像すると少し怖い。むしろ、今のように多少ハングリーな物欲があるほうが、現代を生きる上ではちょうどいい気がする。俗っぽいかもしれないけれどね。
完
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