【短編】あの人の殴り方
だから殴ろうと思った。
殺意でも、敵意でもなく、ただ興味で。
人を殴ってみようと思ったのだ。
楽しそうだった。
とてもスッキリするんだろうなと思った。
血が騒ぐような性格ではない。別に辛い人生だったわけでもない。どちらかと言えば謳歌している方で、粛々と過ごすタイプだ。昨年始めた新しい書店のバイトも順調だったと思う。昔から本を読むのが好きだった。だから七里駅前の書店バイトの求人を見つけた時は、それはもう天職だと思えた。好きな本に囲まれて仕事が出来る。新刊を手に取り、新たな持ち主へと渡してゆく。さながら人生の案内人と言ったところだろうか。僕は幸せものだと思う。
「いい加減にしてくれないかな」
若い嗄れた声が後ろから刺さる。西嶋さんに声をかけられた。僕より4年先輩だが、年齢は僕の方が12も上。いわゆる教育担当、らしい。そんなものお願いしたつもりは無かったのだが、役柄上最近よく声をかけられる。
「木戸さんのせいで僕の仕事が増えるんですよ。いい加減簡単なことくらい覚えて貰えない?」
敬語とタメ口が混ざった彼の口調は、たまに面白く聞こえる時がある。西嶋さんはプライドが高いタイプだ。こういう人は人の弱みをとことん狙ってくる。さも正論かのようにぶつけてくるのだ。僕はなにも悪くないのに、だ。
「ああ、いつもすみません。や、西嶋さんにはいつも迷惑かけてばかりですね。」
「御託はいいから仕事してください。この本はB-2の角。マジ見てるだけでムカつくんで。ちょっとは考えて動けよ。」肩をすくませながら分かりやすく溜息をつく。
「あははは。すみません。」
俯きながらも彼の目はしっかりとこちらを睨みつけていた。長い前髪をかきあげながら、ぶつぶつと去っていく。この日は少し機嫌が悪いみたいだ。何かあったのだろうか。かわいそうに。相談に乗ってあげるべきだろうか。
手の力がだらんと抜ける。ふぅ、とため息を吐いた。
僕はどちらかと言えば昔からいじられることが多い。その分、誰とも敵をつくらない。広く浅くの関係性が好きだった。僕の大事な個性だと思うからだ。だから西嶋さんにもあまり深入りはしない。彼もあまり悪い人ではない。この程度の理不尽には慣れている。つもりだ。
夕方の納品を終え、カウンターに戻るとレジの時間だ。
商品を読み取り、お金を払ってもらう。操作は少々分からないが、お客さんの顔が伺えるのでこの時間は好きだった。今日はやけにお客が多いな。繁盛はいいことだ。
「ありがとぉござぁいましたぁ」
今日も楽しい一日だった。エプロンを畳みながら休憩室に入ると、西嶋さんはパソコンを叩いていた。仕事熱心はいいことだ。
「木戸さん、16時からレジでしたよね。」
「お疲れ様です。そうですよ。」
「お金が合わないんですよ。木戸さんのレジの時間から。どういうことですか。」
この店では3時間ごとにレジ点検を行う。
確かに16時以降のレジの入金額が、少しずつズレていた。身に覚えはない。
「あら大変だ。」
「あら大変だ?どういうことですかって言ってんだよ」
机のコップが揺れる。急に声を荒らげた。今日はダメな日だ。目を見開き、だれがどう見ても怒っているのが分かる。どうやら僕のミスにしたいらしい。いつもの当てつけだろう。こういう時は平謝りして去るのが経験上一番いい。こういう人は謝られるのが好きなんだ。
正直、僕はそこまで仕事に熱はない。熱のある仕事も、彼のように意義はあるのだろうが、僕には到底似合わないと思う。
最初のひと月こそ彼は好青年だった。
まだ僕に対して「敬意」を感じた。
「木戸さんて以前は何されてたんですか?物流の仕事?すごいじゃないですか」
「流石ですね木戸さん!その調子でいきましょう!」
「木戸さん、ここ間違えてましたよ?最近お疲れですか?無理はなさらずに。」
「木戸さん、違います。細かいミスは減らしましょうよ」
「木戸さんまたです。お願いしますね」
だんだんと言葉の温度が冷えていくのがわかった。
「木戸さん。41にもなってこんなミスしないでもらえますか。」
「木戸さんもういいです。残り俺やるんで。」
彼の目から光が見えなくなるまで、そう時間はかからなかった。
一ヶ月。二ヶ月。半年。僕もだんだんと仕事が手についてきたが、彼はそれでも姑のように小言を言い続ける。
「ここまだ終わんねぇの?おそいですねほんと。」
「見てるとイライラするんで。退いてください。」
そして今日。
「今日はミスしてないと思うんですが。」
「だいたいねぇ、ぬるいんですよ、木戸さんは」
「ほんとに、ほんとすみません。」
「分かってるんですか?ただ謝ればいいってもんじゃっ。はぁ。いや。もういいわ。今日は帰って。」
「いや、でも」
「帰ってください。」
言いかけたが、凄んでしまった。僕はそそそと店を出てしまった。
なんだか今日は負けた気がした。
悔しさを初めて感じた。
夕日が心の黒い点を抉るように焦げて見えた。
ぼやぼやと、悶々としながらも、今日が終わった。
最後のがなければいい日だったのにな、そんなことを思いながら、ぼんやりと階段を降りていく。ふと考えていたのは明日の立ち回りだった。恐らく明日も、西嶋さんは僕に攻撃をしてくるだろう。それが理にかなったものなのか、いつもの理不尽なのかは置いておいて、とりあえずなにかしら小言を言ってくるに違いない。木戸さん、いい加減にしろ。はい、すみません。恐らく自分もこう答えるんだろうな、と思いながら一段、一段と階段を降りていく。
家と書店の間は徒歩約40分とそこそこの距離がある。免許も持っているが、七里駅前は交通量も多く、最寄りの古川駅から一駅だけでも乗った方が心の余裕ができる。何より七里駅前はいつも賑わっていて、人も多い。人間観察にもちょうどよかった。あの駆け足のサラリーマンにも、笑いながら歩く女子高生にも悩みや葛藤があるんだろうな、なんてことを思いながら階段を降りるといつもの改札口。いつもの柱の横で、いつもの電車を待つ。いつもの時間にトゥルルルルと電車がやってくる。いつもの車両に乗り、いつもの車窓を眺める。いつも通り。夕暮れがおつかれさまと言っている。
これで明日も乗り越えられる気がしてくる。
僕は独身だ。この歳になると周りのことが気になり、焦りも出てくる。Instagramは夫婦のストーリーが増え、数ヶ月前に見るのを忌避してしまった。帰りにコンビニに寄り、ラクトアイスと焼肉弁当をカゴに入れ、列に並ぶ。温めてもらおうか。いや、でもアイスが溶けてしまうだろうか。なら袋を分けてもらおうか。手間じゃないだろうか。ひとり、またひとりと列が進む。お、肉まんが残っている。ラストひとつだった。
独身ではあったが、絶対に幸せになれるという確信もあった。自分で言うのもアレだが、清潔感はある。髪も整えている。髭も毎日剃る。身なりだけでも、紳士のそれと遜色はないだろう。まだたまたま出会ってないだけの話だ。墓場まで一人ではあるまい。40を迎えてこんなことばかり考える。
家に着き、缶ビールをひとつ開け、ソファにどっぷりと座る。まだ18時だったが、構わん。至福の時間である。
ふと仕事のことを思い出す。あの新刊面白そうだったな。いやぁでも今日の彼は酷かった。金泥棒まで疑いだしたら終わりだろう。ほとほと困ったものだ。
「ぶん殴ってやる。」
思わず口から飛び出た。
初めて口にした言葉だった。驚いた。
だが確かに心の声だった。これだ。
西嶋さんを、あいつを、殴ろう。
いろいろ考えすぎて壊れてしまったのだろうか。
この時の僕はやけに納得してこの言葉を受け入れてしまった。殴ろう。殴ってみよう。別にまだそこまで嫌悪感がある訳では無い。憎ましい程の感情はない。ただ、殴ってみたい。どうなるか興味があった。どんな顔をするのだろうか。思い立った僕は洗面台に向かった。腕を捲り、ファイティングポーズを見様見真似でとってみる。水垢で曇った鏡に冴えない裸が映る。
「弱い。」
中肉中背、細い腕。あまりにひ弱である。
ジャブを一発いれる。久しぶりに腕を早く動かした。
肘が軋む。びりりと電撃が走るような感覚に思わず顔をしかめた。
これではいけない。
学生の頃から、一番苦手なのが運動だった。
体力テストがこの世で一番嫌いだった。数学や地理を将来使わないと馬鹿にする奴がいるが、僕はスポーツこそ将来役立たないと感じていた。
「部活なにやってんの?帰宅部?そっか。」
「じゃあな木戸、俺これから部活なんだよな。」
運動部は確かにモテる。かっこいいとは思う。ただ僕がそれになるのはまた少し話が違うと思っている。僕は僕なりに魅力がある。スポーツごときで着飾れるような人間にはならない。グラウンドを走る同級生を見る度に険しい顔をしていた。
「ごめん。私サッカー部の坂下君が好きなんだよね。」
彼女は薄ら笑いを浮かべ、僕の頭のてっぺんから足先までを俯瞰した。人生で初めての屈辱だった。
「あいつ、三田に告ったらしいぜ。」
「まじかよ。無謀だろキモすぎ!」
出過ぎたゴシップは瞬く間に学校を駆け巡った。
気にしないフリをした。傷ついていない振りをして、3年間心に嘘をつき続けた。耐えればいい。耐えてしまえさせすればいいのだ。そう思っていた。
そんな僕が今、早起きして走っているのである。
大嫌いな、トラウマにもなった運動をしているのだ。
正直、怖かった。殴ることではなく、自分がとてつもなく怖かった。不純な動機ではあると思う。が、ここまで突き動かされるのは生まれて初めてと言っていい。僕は今、生まれ変わったのだと思った。だから怖かった。
本当に殴るのか?いつ?どのタイミングで?
それから数日が経った。
「あのさ、木戸さん。その顔で仕事すんのやめてくんない?あんた印象悪いよ。」
相変わらず西嶋さんは通常運転といったところだ。逆に安心すら覚える。
「すみません、西嶋さん。笑顔のつもりなんですがね。」
「なんだよ。気持ち悪いな。」
あなたの顔の方がよっぽど印象悪いじゃないか。
心の中でそんなことを思いながら、仕事に励んだ。
不思議と、辛くない。彼の言葉が刺さらないのだ。「自覚」したからだろうか。あの日から耐性が付いているように感じた。これは新たな発見だった。心の奥が熱く燃えている。
仕事を耐え抜き、家路につく。直ぐに着替えて、路地を駆け回る。ファイティングポーズはまだまだ貧相だ。
仕事を耐え抜き、駅のトイレで簡単に着替える。仕事着をリュックサックに詰める。2ヶ月もした頃には、七里駅から古川駅までの2駅間をジョギングで通勤するようになっていた。ファイティングポーズはまだまだ貧相だったが。
「なんでもう汗ダラダラなんですか?仕事前だぞ。」
「いやぁちょっと外が暑くてね。はははすみません。」
「気持ち悪いなぁ。早く準備してください。」
バレる訳にはいかなかった。西嶋さんに少しでも警戒されてしまえば、殴った後の達成感に差が出る。平然を装い、仕事中も細心の注意を払った。
そして3月。「自覚」から半年、仕事を初めてから一年半ばかりが過ぎた。心の中でいつでも準備は出来ていた。
「木戸さん。ちょっと来て。」
よし来た。なんでも来い。この頃の僕はいつもずっと興奮を抑えるのに必死だった。
「すみません、また僕なにかして―」
「もうそろそろ教育係を外します。」
え?
「もう仕事も覚えて問題ないと思いますので。お疲れ様でした。」
西嶋さんの笑顔を初めて見た。不気味で寒気がした。
「えっ、あっいや、でも」
想定外だった。これは考えていなかった。
自覚したあの日から、不本意にも評価は上がってしまっていた。自分への期待値を低く見積もりすぎていたことに、この時気づいたのだ。動悸がする。視界がゆらゆらと遠のき、ゲホゲホ、と咳払いをした。明日から小言が無くなる?実際そんなことはないとは思うが、しかし小言の価値が変わってしまう。嬉しいことなんだが、そうなんだが。違う。違うのだ。こうじゃない。
そんなこと言えるわけもない。
「わかりました。今までありがとうございました。」
また心に嘘をついた。思いもしない言葉を吐いた。
新刊を並べ、手に取り、お金を受け取り、見送る。
七里駅前のタイルを見つめ、階段を降りていく。いつもの柱は、知らない高校生が寄りかかっていた。若干満員の普通電車のドアが開き、スポーツウェアの入ったリュックサックを前に抱え、人の圧に耐える。夕日はビルに隠れてしまっていた。見せる価値もないと言われているようだった。
どうしよう。
自然に溜め息が漏れる。目の奥が熱くなった。
認められてしまった。見下され続けた、耐え続けた男に。しかもあんな笑顔で。これまでにない気分だった。それから数ヶ月前のことは、正直あまり覚えていない。
仕事は相変わらず淡々とこなした。小言はめっきりなくなってしまった。次第に衝動も薄れる。半年もした頃には、すっかり忘れてしまった。考えもしなくなった。
「木戸さん。」
納品を並べ終え、A-12周辺をメンテナンスしていた時だった。久しぶりに呼ばれた。
「ちょっといいですか。こちらへ。」
その声は西嶋さんではなく、店長だった。
「この方の教育をお願いしたいんですが」
店長の横には、小柄な青年が立っていた。折り目の残る新品の制服を着て、まっさらなエプロンを巻いている。身長は170無いくらいだろうか。どちらかと言えばかわいいという印象を持たれるような子だった。
「あ、はじめまして、えと、白石拓真、です。」
「木戸さんももう働かれて長いでしょう。ぜひサポートしてあげて欲しいんです。」
「僕がですか。西嶋さんは?」
「実は西嶋さんからぜひ木戸さんにと。彼は優秀ですと言ってましたよ。」
ミニトマトを押し潰したような、ギュッとした音が心の中でした。違和感はあったが、これといって断る理由も咄嗟に見つからなかった。奇しくも僕は、あの時の西嶋さんと同じ立場になってしまった。だが内心、自信もあった。僕なら上手く教えられる気がする。教えるのは好きだった。
「木戸〜勉強教えてくれぇ〜。」
「まじ?94点?最強すぎ。まじ木戸教授じゃん。」
高校時代を思い出していた。昔から勉強が取り柄だったから、よく放課後に教えていた。メガネをかけていたのもあり、あだ名は「教授」。いじられることもあったが、自分自身、効力感に満足していた。
翌日から白石君の教育係が始まった。
「ここはね、背表紙のここを見て。そうそう。いいね、完璧だよ。」
若いからだろうか。覚えは早いように思った。
「おっと違うな。ここだよ。大丈夫大丈夫。僕もなかなか覚えられなかったなぁ。」
彼は熱意こそあるタイプだった。どことなく西嶋さんに通づるものがある。だがそのあまりちょっとしたミスが多い。
「え?やり方?この前教えなかったっけ?いいよ、じゃあちょっと見てて。」
「いいんだけどね、今度から早めに聞いてくれると助かるな。」
「ちょっと落ち着こうか。大丈夫、ひとつひとついこう」
西嶋さんも大変だったんだな、と思った。想像以上に大変な任務だった。この世代の子はどう扱ったらいいのか、どんな言葉がいいのか。仕事終わりに違う書店にハシゴした。ティーチングの本を見つけては買ってみた。現実は思うようにいかない。ケーススタディはそこまで役に立たないと分かった。いつもの柱の高校生からこの前睨まれた。何も悪くないのに。なんなんだ。
ふとした時、白石君の方から声をかけてきた。
「木戸さんすみません、昨日の発注なんですが。」
「おぅ、どうした?分からない?」
「木戸さんの発注、ちょっと違くないですか」
見せてもらった管理画面には、確かに木戸克典の文字。
新刊の発注数が赤くなり、数量エラーと出ていた。
「あ、ほんとだ。間違ったみたいだ。」
「木戸さんもミスするんですね」
「いやぁ弱ったね、ははは」
「もう、落ち着きましょうね」
「落ち着きましょうね」?
くしゃ、と音がした。顔が歪んでるのが分かった。
笑顔を装ってるつもりだった。
その日から、少しずつ、少しずつ、僕の心の音が聞こえるようになった。
七里駅前はまだ人が多い。皆どこか僕を見下しているような、そんな気がしてならなかった。
くるしい。
久しぶりにくるしいぞ。
だから殴ろうと思った。
久しぶりに心が軽くなった。
だから殴ろうと思った。
殺意でも、敵意でもなく、ただ興味で。
人を殴ってみようと思ったのだ。
楽しそうだった。
とてもスッキリするんだろうなと思った。
心に嘘はなかった。
【短編】あの人の殴り方
初めて短編サイズを書いてみました。
いやぁ、難しいですね。でも達成感があります。
人間の感情の上下を描きたいなと思って書きました。
今後も少しずつ挑戦します。どうぞご覧下さい。
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