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書くことは丁寧に生きることに繋がる

スーパーの生鮮食品コーナーにずらりと並べられた野菜の山を見て、僕はそこに自分の姿を投影することがある。

多種多様な商品が取り揃えられ、廃棄品がでるくらいの食品の山で溢れかえる生鮮品売り場の光景は、まさしく資本主義(大量生産・大量消費)によって発展した社会を如実に体現した現場の一つだろう。

ある日、僕は巨漢の男性の手によって買い物カゴに雑に投げ入れられる大量のもやしを目撃した。その現場を見た僕の胸に、何か、ザワザワと強烈な得体のしれないものがふっと沸きあがってくるのを覚えた。

もやしは、あらゆる食品の中でトップクラスにコスパに優れた食材だ。安いところでは10円、高くともせいぜい50円前後の価格で200gの量が袋いっぱいにぎっしりと詰まっている。もやしは炒めてよし茹でてよし、蒸してよし、と三拍子揃い、鍋にも入れることができる。野菜炒めに付け合せのナムル、焼きそばにラーメンなどの具材にも調和するという八面六臂の大活躍を誇る。おまけに量が多いために腹が膨れるという特典までついてくるのだ。

そんな野菜界の中でも類を見ない、唯一無二のポジションを獲得しながらも、もやし達は巨漢の中年男性の手によって買い物カゴにまるで獄卒が囚人を牢に放り込むかのような雑さで、投げ入れられていたのだ。

果たして、彼がどのような経緯でもやしを爆買いするに至ったのかは不明だ。経済的な困窮が原因だったのか、あるいはもやしダイエットを敢行しようとしていたのか、はたまた単純にもやしが好きな人だったのか、それを知るすべはない。ただ一つ言えることがあるとすれば、彼がもやしを買い物カゴに投げ入れるその様子からは、もやしに対する愛もリスペクトもまるで感じられなかった。

僕はなんとなく、乱雑にカゴに放り込まれるもやしを見ていて、少しだけ悲しい気持ちになった。

そのことが、ずっと頭の片隅に残っていた。

もやし の行く末は自分が辿るかもしれない道

それが今になってようやく、あの時、自分が引っかかった理由が分かったように思う。

僕たちは資本主義社会の中で、生産と消費を繰り返しながら日々を過ごしている。

それは生産と消費によって回る社会構造の中に組み込まれる形で、僕たち自身が、何かを、誰かを消費し、何かに、誰かに消費される形で、生きているということだ。

価値がないと判断されたモノは、固有の価値を市場に認めてもらえなかったモノは、市場の原則に則って、使い捨てられていく。もやしのように価値の低いものであるほど、粗雑に扱われ、代替可能品として電池のごとく消費されては捨てられる。

それは市場の原則に則って雇用されている僕にとっても、避けて通れない道なのかもしれない。時折、生きていることに対して感じてしまう空虚さの正体を、僕はカゴの中の大量のもやしの中に見たような気がしたのだろう。

青臭い若者にありがちな世界の捉え方かもしれないが、僕は時々そんな風に世の中を見つめてしまうことがある。

『もやし=未来の自分』という空虚さから抜け出す方法

この”空虚さ”の正体をつくっているものはなんだろうか。

理由はいくつか考えられるのだが、僕はその一つが”消費してる感”にあるのではなないだろうかと、ふと思い至った。

これは、充実感なく過ぎ去っていくだけの日々を僕は、人生を消費しているだけのように感じる瞬間があるということだろう。大量生産・大量消費のシステムの中に飲み込まれている自分がいるのだ。そこから、少し外側へと出る必要がある。

思うに、”消費してる感”というものは対象を粗雑に扱うことでより強くなるのではないか。自分が他人から粗雑に扱われていると感じながら仕事や与えられた何かをこなす時の”消費された感”(あるいは消耗感とでも言うべきか)は、丁寧に接してもらえた時より明らかに大きく感じる。同じように「いただきます」と「ごちそうさま」を言わなかった時の、食事に対する”消費してる感”もまた大きいなと、食事を終えて言い忘れたなと思った時に感じる(そういう時は大体食事を丁寧に食べてはいない)。

「ありがとう」の一言を添えてもらえるだけで、”消費された感”は大幅に軽減されるし、「いただきます」と「ごちそうさま」を言うことで食事をただ”消費してる感”もまた薄まるように思うのだ。

感謝は、対象への敬意の表現であると同時に、”消費してる感”から距離を取るための”丁寧さ”を僕たちの心に与えてくれるのではないだろうか。

そして、僕が時おり感じる空虚さから抜け出すための方法が”充実感を得ること”以外にあるのだとするならば、それは”丁寧に生きること”

書くことは、対象と丁寧に向き合うことから生まれる

僕は幼い頃から、作文や文章を書くのが苦手だった。何を書けばいいのかよく分からないので、夏休みの宿題の読書感想文はとにかく億劫に感じていた。とりあえず、読んだ本のストーリーを説明して文字数を稼ぎながら僅かな文字数で実にありきたりな感想を添える、という方式で駄文を書いて提出していたように記憶している。

noteを始めてから1年ほどが経過するが、数えるほどしか更新できなかったし、何か書こうと考えてパソコンの前に座ったもののキーボードに添えた指が全く動かずに考え込むだけの時間が過ぎ去ったり、書いているうちに自分でも何が言いたいのか迷子になる時が多々ある(実際この文章を書いている最中もそうなった)

そんな自分がなぜ、わざわざ文章を綴ろうとするのだろうか。

もちろん、そこには『世の中に向かって発信したい』というモチベーションの核が存在しているのだが、それだけでは書き続ける動機に足りない。そのモチベーションを拠り所にすると、記事が読まれるか読まれないか、スキをいくつもらえるか、といった承認欲求の方向につい走ってしまう自分がいる。それではこの一年の繰り返しになってしまうだろう。書くことを習慣化して継続するためには、書く行為そのものを楽しめるようになる必要がある。少なくとも書くことの楽しさを知る必要があると僕は考えた。何より、そういった内側から湧き上がる衝動やエネルギーが不在のまま表現したものは、きっと空虚なものにしかならないと思う。

そう思い、文章表現について色々とネットや本を漁り、それらの理論を参考に改めて言葉を綴ろうとした時に今までとは少しだけ違う景色が見えたように思った。

それは、対象と向き合うことで得られた情報を的確に捉え、自分の内面に湧きあがった感情や印象を丁寧にすくい取って言葉に置き換える、その過程の中から生まれるのが”文章表現”なのだな、という感覚だったように思う。

その感覚にほんの少し触れられた時、文章表現に置き換えるためには、前段階として対象と自分の内面に湧きあがった感情と丁寧に向き合う必要があるのだということに僕はようやく気づかされた。

書くことは、対象と丁寧に向き合うことから生まれる。

そして、書くことは丁寧に生きることに繋がる。

この意識を大切にして、僕は書くことを楽しみながら継続したい。






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