ヴァイオレット・エヴァーガーデンとメンタライゼーション
イラスト:ⓒshigureni様
暁佳奈によるライトノベルを原作に、2018年にTV放送された京都アニメーションが手掛けるアニメ、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』。来月には新作映画が公開される。
美しく、精緻な世界である。予告だけで「絶対映画館で号泣するな…」という予想ができる。
アニメ好きの臨床心理士や公認心理師なら、話題になったことがあるのではないだろうか。個人的には「同業者全員に見てほしい」と思っている。それはたぶん、この作品が「心を知る」というプロセスをとても丁寧に描いているからなのだと思う。
以下、割とネタバレしているので注意。
主人公の少女・ヴァイオレットの育ちはとても外傷的である。孤児である彼女は陸軍少佐のギルベルト・ブーゲンビリアに保護された(正確にはギルベルトの兄によって拾われてきたのを押し付けられた)。彼女は温厚なギルベルトから「ヴァイオレット」という名を与えられるとともに、人間社会の言葉や規律を教わる。並行して、戦闘能力に秀でていた彼女は軍人(女子少年兵)として暗躍し、大量の敵兵を殺害するようになる。
ヴァイオレットは自分の保護者兼上官であるギルベルトを慕い、彼からの「命令」を生きる糧としている。常に感情などないかのような無表情で、ギルベルトの「命令」以外には関心を示さず、人間というよりも「兵器」として生きている。どこまでも忠実なヴァイオレットに対し、次第にひとりの人間として彼女を愛するようになったギルベルトは葛藤を深める(※大人が十代半ばの子どもにその感情を向けるのが適切なのかというのは少し考えさせられますが)。
物語はとても印象的なシーンから始まる。ギルベルトに連れられたヴァイオレットが、店に飾られたひとつのブローチに関心を示す場面である。
少佐の瞳があります。
少佐の瞳と同じ色です。
これを見た時の、こういうのを何というのでしょう。
ヴァイオレットの心はギルベルトの瞳と同じ色のエメラルドに反応している。しかし彼女の心は未分化すぎて、自分の心の動きを表す言葉を持たない。ギルベルトはそんなヴァイオレットを苦しそうな表情で見つめている。
その後、ヴァイオレットは大戦で重傷を負い、ギルベルトの消息も不明となる。彼女はギルベルトの帰りを待ちながら、彼の友人の後見人に支援されつつ、戦争が終わった世界で新たな生き方を模索することになる。
戦争が終わったことで「兵器」としての価値を失い、上官であり親代わりのギルベルトは行方不明。さらに両腕を失い義手になった。そんな状況でもヴァイオレットは淡々としている。まるで感情などないかのように。戦争で大量に人を殺してきたことについての罪の意識や心の傷もないかのようにふるまうヴァイオレットに対し、後見人は「君は自分がしてきたことで、どんどん体に火がついて、燃え上がっていることをまだ知らない」と指摘する。しかしこの比喩についても、ヴァイオレットは理解することができない。
ヴァイオレットは後見人が営む郵便社で手紙の代筆業を目にする(識字率が低いため手紙の代筆業が存在している。義手のテクノロジーは現代のはるか先を言ってるのにそんなことある!?と思ったりもするがまあそれはそれで)。そこで出てきた「愛してる」という言葉に強く反応する。
「愛してる」はギルベルトが最後に彼女に残した言葉だった。しかし彼女はその言葉の意味がわからない。
「『愛してる』を、知りたいのです」
自分に対してそう口にしたギルベルトの心を知るために、ヴァイオレットは手紙の代筆業を始めることになる。
最近この本を読んで「これってヴァイオレットのメンタライゼーションのお話なんだなあ」と改めて思った。(※筆者はまったく専門ではないです)
「メンタライゼーション mentalizationとは、『自己・他者の行為を、心理状態(欲求・感情・信念)に基づいた意味のあるものとして理解すること』と定義されます」(p.24)
「例えば、『彼はどういう気持ちからああいう行動をとったんだろう?』と慮ったり、『どうして私は今彼に対してそんなにイライラしてしまうのだろう?』と自らを省みたりという、誰もが日常的に行っている心の作業のことです」(p.24)
「兵器」として生きるヴァイオレットは日常でも心が凍ってしまっているようで、まさに「外傷的育ち」の少女という印象を受ける。ちなみに代筆業の正式名称は「自動手記人形(ドール)」で、美しくも表情の乏しいヴァイオレットは行く先々で「お人形」と評される。
実際に序盤のヴァイオレットは自分の心を感じられないし、他者の心についても想像ができない。ギルベルトに関することだけは例外的に反応するけれど、それがいったいどういう感情なのか彼女自身も理解できていない。
当然ながら、代筆業も最初は全然うまくできない。報告書のような無味乾燥なものしか書けないヴァイオレットは依頼者にも同僚にも呆れられてしまう。しかし彼女は周囲の人々との関わりをギルベルトの記憶と重ねあわせながら、少しずつ体験的に感情というものを学んでいく。美しいものを共有したいという気持ち、愛しているという言葉を口にするときの恐れ、そのような人の心の機微を知り、それらを表す言葉を紡いで手紙にする。ヴァイオレットの書く美しい恋文を世間が知る頃には、次第に無表情だったヴァイオレットは小さく微笑んだりするようにもなっている。
とはいえ、人の心を知ることは幸せなことだけではない、というのをこの作品は真摯に描いている。自らが理解し、感じられる感情の種類が増えるとともに、ヴァイオレットは戦争で自分が奪ってきた数多の命についても考えざるをえなくなる。苦悩は深まり、彼女は自分の心の傷にも気づき始める。
物語後半の展開は決して明るいだけではなく、どちらかというと切なく悲しい。というより毎回胸が締め付けられ涙が止まらないほどの苦しさがある。後半の代筆の依頼者は、かつて家族を失った人、愛する者を残してこの世を去る人、そして戦場で死にゆく人である。並行して、ヴァイオレットとギルベルトの別れとなった戦場のシーンが回想される。「死」や「愛」をめぐる依頼者の気持ちを汲み取る作業を続けるなかで、ヴァイオレットは戦場でのギルベルトの心と、己の心の動きを追走することになる。詳しく言うとネタバレになってしまうが、ここの構成ほんまに白眉と個人的には考えている。
後見人をはじめとした仲間に支えられ、さまざまな人と出会い、彼・彼女らの心を想像することを通して、ヴァイオレットは人間の感情を学んでいく。そして自分の心の傷つきに気づき、それらを見つめることが可能になる。かつてはまったく理解できなかったギルベルトの気持ちが少しずつ紐解かれ、今のヴァイオレットには(すべてではないが)理解できるようになる。
しかし、自分のギルベルトへの気持ちに関してはうまく言葉にすることができない。最終盤ではその行き詰りをこえるプロセスが描かれる。
彼女はギルベルトの家族と会い、同じ傷の、同じ「愛」の存在を共有する。自分の心のなかにギルベルトがいること、彼を愛していること。家族の言葉を通してヴァイオレットは自身の感情に気づくことになる。そして彼女は生まれて初めて「手紙」を書く。
「私は、今、『愛してる』も、少しはわかるのです」
もうこの時点で泣いてないやつおるんかなってくらい、感動的なラスト。ちなみに私は7話くらいからずっと泣いているし、これを書いている今もうるうるしている。本当に、本当に素晴らしい物語である。
少し前の京都アニメーションといえば、『らきすた』『けいおん』などのいわゆる「日常系」などゆるい世界観の作品という印象だった(まあ『けいおん』の劇場版もめっちゃ泣いたけど…)。そこから『Free!』や『響け!ユーフォニアム』などの部活もので、日常の中に潜む情緒表現の繊細さに磨きがかかり、ついにこの『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』でそれらが爆発したように思う。
だからこそ、昨年の京都アニメーションの事件は本当にショックだったし、いまだに自分の心のなかに傷として残っている。同時に、あれだけの傷つきを経てもなお京都アニメーションが創作を続けたことには深い畏敬の念を覚える。昨年9月には外伝映画も公開された。
外伝なんだけど、本編と言っても差し支えない。さまざまな経験を経てきたヴァイオレットが、今度は他者の気づきを促すというか…メンタライズを手伝うようなところがある。Jungの言うところの「傷ついた癒し手 Wounded Healer」の物語かなと思う。この映画を見て京アニの再生を信じることができたし、改めて微力ながら応援していくと決めた。このブログもその一環。
とりあえず同業者全員に見てほしいし、外伝も、あと来月公開の新作映画も見てください。って話でした。