理屈を超えた世界との向き合い方 - 「こどものあいだ」に教えることベーシック
昨日、「こどものあいだ」に子供に知っておいて欲しい12のことをまとめました。その内容より、もっとベーシックかつ価値観・道徳に踏み込んだ部分で教えるべきことについても、改めてまとめてみます。
このベーシックな内容については、先日の12のこと以上に賛否両論があり得るものだと思います。それを誰かに強制するという事ではなくて、「私はこのように子供を育てたい」という意思表示に近いものになっているのかなと思います。
無条件の肯定を受ける感覚
存在しているだけで、無条件に愛され、肯定されるということ。
色々と特殊な状況はあり得るものの、基本的には親がこれをできる最大の実行者であり、かつ唯一の実行者であると思います。
子供であっても、条件付きでしか愛せない/愛すべきでないという信条はあり得ると思うので、その考え方を否定するものではありませんが、私は子育てにおいて無条件の肯定が必要と思っている、という事でした。
気持ちと理屈、感情や主観と事実を区別する
気持ちと理屈は、時に相反することがあり、しばしば認知的不協和の元になります。しかし、それらの区別が明示的についていなければ、自分が何において負の感情を抱いているのか、といった事を理解できず、問題を解消することができなくなります。
そうした問題を解消できるようになるために、まずは気持ちと理屈を区別して考えるという事が必要と思います。
同様に、感情や主観と事実との区別も必要になります。自分がこう感じている・考えているという事と、実際にこうであるという事の間の区別です。
これは、現実を正しく把握して、心理的にも現実的にも問題を解消するための重要な手段になります。
実践的なメタ認知を行う、自分で決断したことを大事にする
認知を整理して認識をした上で、以下のような問に自分自身で答える習慣をつけるということです。
・自分は何のために勉強をするのか?自分や人の為になるからなのか、好奇心なのか、規則なのか、親から愛されたいからか?
・自分は何のためにスポーツをするのか?自分や人の為になるからなのか、好奇心なのか、規則なのか、親から愛されたいからか?
(うちの子供の場合は)3歳で既に自我ははっきりしていて、自分の目的の為に人を操作しようとしたり、意図する操作と反して感情をぶつけてしまったりします。これをいつどうやって克服していくか?という事については、身体的/精神的な成長段階に合わせたタイミングなどがあると思いますが、ある程度自律的に物事を考えられる年齢、たとえば9歳〜10歳ぐらいであれば、「自分が勉強をするのは親から愛されたいからなのか、そうではないのか」という事に向き合える心があると思います。
もちろん、そのような事をデタラメにぶつければよいという事ではなく、きちんと子供の疑問や行動のまさにその瞬間に合わせて、適切な問いかけをする必要があります。私が具体的な事例として聞いて参考になったなと思うのは、以下のようなことです。(多少言葉を補ったり調整したりしています)
家庭教師をしている際に、小学生が計算間違いに対して、しばしば「これはちょっとしたケアレスミスだから問題はない」などと言う事があります。ここでいう「問題」とは何か?邪推すれば、それは自分自身が本質的に優秀であるという事の保障であって、究極的には親またはその他の人から愛されるに足る存在であるという事において問題がないという事です。
これについては、次のように応答します。
「君はちょっとした計算間違いに問題がないというが、医師や看護師が薬品の量の桁を間違えたり、単位を間違えたりしたらどうなるか?最悪は患者が死んでしまうが、その患者の前で『計算間違いをしたけれど、でも私は難しい手術もできて優秀だから大丈夫だ、問題はない』というと患者のご家族はスタンディングオベーションで迎えてくれるのか?」
そうすると、自分の"正当化"が誤っていて、その本質が自分の優秀さ/愛される事を担保するためであったということに気づきます。これをきっかけとして、まさに問題意識を共有できた状態で、次のように伝えるのです。
「君はなんのために勉強をするのか?親に愛されるためなのか、そうではないのか?そろそろ、親に愛されるために勉強するという事は卒業して、自分の意志で勉強をしては?」
ちなみに、ここで一点気をつけないといけないと私が思っているのは、「だから常にあらゆる場面で計算を間違えてはいけない」というような方向に子供の考えを誘導してはいけないということです。計算が問題か問題でないかというのは、場面によります。先程の例では、単純な計算ミスでも深刻な被害が発生し得るという事は示していますが、常にあらゆる物事で間違えていけないという事では決して無いのです。例えば、授業で自分の考えを述べるような場面においては、その時点での主張の正誤よりも、いろいろな相手を踏まえて自分の考えはこうであるとまとめて述べるという事自体に学を深める作用がある場合もあります。
もしシチュエーション的に、このような事を踏まえての「問題ない」であったならば、それはそれで尊重すべきです。ただ、そこに自己愛の片鱗があるとしたら、その指摘は重要な事であり、子供のうちにそれに気付けるか否かで大きく考え方が変わるかなと思います。
(というのを、実際に昔の私がそういう話をされたらどう思っていたかな、と考えて思いました)
嘘をつかない
嘘をついてはいけません。
嘘も方便という言葉はあり、どんな時でも嘘をついてはいけないのか?というと、例外的な場面もあり得るとは思います。しかし、原則として嘘をついてはいけなくて、それは理屈によって説明されるような事ではなくて、ある種の条件反射的なものとして嘘をついてはいけないのだと思います。
お礼を言う
なにかよいことをして貰ったら「ありがとう」と言います。
これは、次の「悪いことをしたら謝る」の裏返しのような事だと思います。従って、それと類似の理屈の付け方はあると思うものの、究極的には理屈ではないところに答えがあるのかなと私は思っています。
悪いことをしたら謝る
悪いことをしたら謝ります。
これにも、究極的には理屈は無いと私は思っています。もちろん、謝るという事をいろんな意味で正当化する事はできて、例えば功利主義的な意味でその方がよく社会が回る、みたいな説明はできるでしょうし、相互の立場を尊重する上で謝るという事をしなければ信頼が成立しないし感情的な傷を抱えることになる、みたいな実効的な説明もできると思います。ただ、私の理解では、そうしたものは結局後付で納得をするための"病的な"理屈であって、そこに根本的な理屈は無いと考えた方が自然だと思っています。
意味を理解せずに表面的に謝っても意味がない、という指摘もあり得ると思います。それはある意味でその通りだと思います。しかし、逆に謝るという習慣から意味を見出して、それが真に謝る事になるという事も十分にあり得ます。
その"順番"みたいな事に、私個人はあまりこだわる意味を見いだせず、思考停止で受け入れるところからスタートしても構わないと思いました。
新しいことに挑戦すると、統計的には必ず失敗するし、脚を引っ張られる(でもやる)
新しいことへの挑戦を考えます。物事をなすことを、細かいタスクに分解して考えていくとき、そのタスクのすべてが最初から完全に成功するという事はまずあり得ません。
物事自体が失敗することもありますし、全体的には成功でも細かくみると失敗だらけということもよくあります。
これまでに習得していない事をやるという事は、それだけ失敗を新しく発生させるということでもあります。でも、それは挑戦をするからには当たり前のことで、その失敗を乗り越えていくことで初めて本当に成功できます。
新しいことへの挑戦は、単純な失敗だけではなくて、時に周りの人から脚を引っ張られるということもあります。正面から否定されることもありますし、影で失敗するように手を回される事すらもあります。
でも、それでもやるという事に意味があります。人生の本質、本質的な価値の一つは、そのような状況を理解してそれでもやるという心にあるのではないかな、と私は思っています。
自分と他人の区別、それぞれの尊重を理解する
自分の心と他人の心の間には、線があります。少なくとも、主観として感じることには違いがあり、それぞれに思うことは違っています。
自分と他人に違いがあるという事を理解した上で、それぞれを尊重するということ。そのような考えを持つことで、うまくいく事は多いのかなと思います。相手の気持を考える。自分がされて嫌なことはしない。「己の欲せざる所は人に施す勿れ」
しあわせに生きることを強く意識する
人間は、自分の能力の及ぶ範囲で、生き方を選ぶことができます。つまり、自分の選べる選択肢の中で、相対的に不幸に生きることも、幸福に生きることもできるということです。
何も考えずに生きると、その中で不幸な選択肢を選ぶか、幸福な選択肢を選ぶかは完全な運任せになります。
運任せに生きて失敗してみじめな人生を送る、それはそれで一つの選択ではありますが、どうせならば考えて幸せに近付いた方が良いかなと思います。
もちろん、「人間は無力なのでいくら考えても意味がない、自然に身を任せ受け入れて生きるべき」という考え方もあると思います。しかし、古代の中国等の状況であればともかく、科学的に発展した現代を生きる我々としては、そのような悟った考え方はあまり適さないように感じます。
究極的な運の悪さに対して人間が無力な事は、今の世の中であっても古代と差はないものの、多数派はある程度の幅の中で自分の人生を選べるようになっています。そこで、幸せの最終的な定義が何であるとしても、そのように生きる事を意識するのが大事なことだと思います。
人はいつか死ぬ、永遠のものは無い
人生は有限であり、人はいつか死にます。永遠に存在するものはありません。
私の妹は、幼稚園の頃にそれを知って絶望したそうですが、人生のそれなりに早いうちに、いつか人は死ぬのだという事を理解しておく必要はあるのかなと思います。
これらを受けられなかった時に人はどうなるか。また、そのような人とどう付き合うか
多少メタ的な内容ですが、12のことも含めて、こうした知識・愛を全く与えられずに育つとどうなるのか。それもまた、非常に大切な事です。
12のことや、ここに書いたすべての事を享受できているとしたら、それはとても恵まれていることだと思います。例えば冒頭に挙げた無条件の肯定という、ただ一つを取り上げるとしても、私の直感では少なく見ても日本の1〜2割程度の子供は享受できていないものと思います。
子供の立場からすると、ここに書かれた事は周りから与えられる事がほとんどで、「自分でそれらを積極的に必要と思って知りに行く」という事は簡単にできることではありません。それらが与えられなかった場合にどうなって、またそのような人たちの中で自分がどう生きていくのか、という事を考えないといけません。ここに書いたことは、私が教えたいと思う一方で、世の中では必ずしも教えられていることではありません。主義主張のレベルで異なる・相反する認識を持つ人もいます。その中にあっても、なお互いに尊重して生きたい、そのためにどうしないといけないか、ということです。
これの一つの答えはノーブレス・オブリージュという事になるのかなと思っていました。ただ、それが唯一の答えかというと違う気もして、ここでは問題提起のみに留めます。
※例えば、アダルトチルドレンという切り口で見たとき、アダルトチルドレンや予備群の人数を2割程度とするような考察やデータ等がしばしばあります。厳密性など検証できず、ここでは私の直感としていますが。これは具体的な数値としてどうか、という事ではなくて、定性的な話として受け止めて頂ければと思います。
むすび
価値観の意味で少し突っ込んだ、よりベーシック・コアな内容になりましたが、これもまたどんな職業・生き方を選ぶにしても、私としては大事にしてほしいなと思うことであり、親が教えるべきと思うことでした。
ちなみに、挙げた内容の順番については、なんとなく意識して書いているものの、これの明確な説明を持ち合わせていませんでした。見直していて思うのは、次のような考えかな?ということです:
・無条件の肯定がベース。
・理屈がないこと・あることの整理。いわゆる「理屈ではないこと」の受け入れ。(脳内物質等の観点で感情に理屈をつけられるとしても)
・「理屈ではなく守る」というレベルで理解すべきこと。他の価値観をアンラーニングしてでも軸に据えるべきと思うこと。
・上記を守ろうとしたりして、実際に行動した事についての失敗や挑戦への向き合い方。他者から無条件の肯定を受ける事とは別に、自分自身でそれにどう向き合うか。自分自身における存在意義の定義と、他者との関係性。
・目的を持って生きること、人の死という事について。
・価値観の異なる人とどう生きるか。
私がこの記事で述べていることは、総じて「理屈じゃない」事です。ある種の不条理の受け入れ、あるいは不条理と対になる愛・しあわせの受け入れ、という事かなと思います。世は不条理なんですね。
私が先の記事で述べた価値観も、これらの事をベースにしている部分があります。例えば「世の中には理屈のないことがある」とベースで思っているからこそ「世の中には例外のまったくない物理法則が存在し得る」という事が一層強く響いたという側面もあるかなと思います。不条理な世の中の、条理に従った世界、とでもいうのか。
おまけ
トップ画像は、子供が片付けたクレヨンの画像です。これがすごく難解な内容になっているのです。
左側のクレヨンは、真ん中あたりにあるラベルの色と一致した順序で並べられています。
右側のクレヨンは、一見すると規則性が無いかもしれませんが、実は一番左のラベルを回転させると重なるような並びになっています。
2歳5ヶ月、まだ満足にアルゴリズムを説明できない子供が、少し考えながらもほぼノータイムで収納して得られたこの結果。しかも、この収納は左右の区別なく同時に行われていて、右側を先に並べ終わりました。右側が並んだ時、左側は2つ埋まっているぐらい...。
右側だけを取っても、偶然発生する確率は1/720で、実際には左と右の構成要素の区別もはっきりしているので、ほぼ間違いなく意図的なものと思います。右側のクレヨンの並び順を覚えていたのか、認知したラベルを頭の中で回転させて重ねて並べたのか、適切な日本語を喋れない子供から説明を受けることは不可能ですが、私はとんでもなくびっくりしてしまいました。
子供の脚を引っ張らないように生きたいですね。
というのを、ただの親バカ蛇足として書いていたのですが、これには本質的な意味がありますね。つまり、この記事の主題が不条理との向き合い方であった一方で、子供というのは実は驚くほど秩序に結びついた存在であるということ。
うちの子供には、他にも色々と、「自分の中での秩序が崩れる場面」において感情が爆発する事象が存在していました。例えば、1歳の頃から、しばしば「外の世界の崩れた秩序」と合わせて自傷行為をすることがあるのを見ていて、最近もそれに近い感情の爆発のさせ方をするのですが、ここで述べている事は、そっくりそのままそうした事柄への解であり、かつ私が多分一番大事なんだろうなと思ったことでした。
この事みたいに、「あまり意図せずに書いていたものについて、よく見ると"隠れた意図"が存在していた」という事があると、面白いですね。なるほど、結局は理屈を超えた世界とどう向き合うかという、それだけなんですね。やっぱり。
謝辞
メタ認知のくだりは、競技プログラミング同好会競技就活部門の会合で聞いた話を元に再構成・追加したものです。個人的には、これまで2019年以降で首尾一貫感覚と言い続けていたものは、メタ認知の軸で整理できると考えはじめており、その上で非常に重要なパーツがこれだろう、と思っています。
私の父が、実子を育てるにあたって少なくとも他の家庭の子を育てるようにはうまくいかなかった事の理由も、多分これであろうと思っています。