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知の獲得と流行り廃りを、アンラーニングとアウフヘーベンの2つの戦略から眺める

# 結論

大きなタイトルをつけましたが、この記事の結論は以下です。

・現代社会を構成する様々な要素、例えば法律、標準規格、ツールといったものは、全て流動的であり、また流行り廃りを有する。
・それらをより良く使いこなし続けるには、アウフヘーベンだけではなくアンラーニングの能力が必要になる。
・一方で知の体系全体で効率的にイノベーションを起こし続けるためには、アンラーニングを敢えてせずに考える事も必要になる。

# 考え方の骨子

もう少しブレイクダウンして、以下のような骨子のことを述べようとしていました。

・知を生み出す/用いる一連の行動において、流行り廃りが存在する。
・現在の時点で相対的に秀でている、あるいは今後秀でる可能性があると期待される知が流行る傾向がある。逆に、そうでないものは廃れる傾向がある。
・一方で、ある時点では相対的に劣後とされた分野・手法の延長線上に、次のイノベーションが発生して優劣が逆転する事もしばしば見受けられる。
・このような逆転現象は短期間に発生する場合もあるし、10年や20年、あるいはそれ以上のサイクルで発生することもある。
・常に知の最先端であり続けるためには、その新しい知を獲得し続ける必要がある。
・このような逆転現象がある場合に、知の獲得に際して従来の知と新しい知が対立、矛盾する事がある。
・矛盾を克服する戦略として、アンラーニングとアウフヘーベンの2つの戦略がある。
・アンラーニングは、矛盾する知のうち"劣った"ものを意図的に棄却する戦略である。
・アウフヘーベンは、一見矛盾するように思える知について、必要に応じてその一部分を修正し、より高位の知に合成・昇華させる戦略である。
・個別の知を活用する個人の立場においては、必ずしも複数の知が無矛盾になるように説明をつける必要はない。そのような深い理論がなくても、事実として知を活用することはできる。
・個人の人生、個人に与えられた時間は、無矛盾な説明をつけて理解をするには短い事がある。また、能力や他の知識的に難しい場合もある。
・したがって、アンラーニングは、知を活用する立場においてはアウフヘーベンよりも有利な戦略となり得る。個人においては過去と矛盾する知を効率的に獲得できる場合がある。仮に以前の知が根本的には間違っていないとしても。
・特に、根本的なイノベーションが頻繁に発生するような知の体系においては、その知識の活用においてアンラーニングの能力が重要になる。
・一方で、知の体系の全体が無矛盾であることは、しばしば重要視される。一般的な論理的推論を行う限りでは、矛盾からは任意の結論を導き出すことができ、論理的推論による演繹が機能しなくなるという意味において破綻する。
・したがって、知の体系は無矛盾であるように知が加えられる事を必要としており、つまりアウフヘーベン的な理解が必要となる。
・今流行っていないことを研究することにも、イノベーションを生じ得るという点で価値がある。
・極端にアンラーニングを進めると、流行りの知識以外の知識が棄却され、流行りでない事の研究が難しくなる。
・その意味においても、アウフヘーベン的な理解は重要となる。
・アウフヘーベン的な理解が個人にとって有効なタイミングで結実するかはわからないが、知の体系においては意味がある。例えば、次のイノベーションに繋がる場合がある。
・現代社会を構成する様々な要素、例えば法律、標準規格、ツールといったものは、全て流動的であり、また流行り廃りを有する。
・それらをより良く使いこなし続けるには、アウフヘーベンだけではなくアンラーニングの能力が必要になる。
・一方で知の体系全体で効率的にイノベーションを起こし続けるためには、アンラーニングを敢えてせずに考える事も必要になる。

しかし、この骨子だけでだいぶ長くなってしまい、本編を書こうとするととんでもない分量になりそうだったので、とりあえず理屈をまとめました。

# 背景にあった私の考え方

以下は、このような考察を書くにあたったモチベーションの整理です。

私自身のこの理解、洞察自体はアウフヘーベンによってもたらされました。しかし、当たり前の事を極めて回りくどく説明しているようにも見えます。これがアウフヘーベンの難しさで、それぞれ切り取って見ると説得力のある言説、けれども互いに対立するような言説について、納得できる説明を与える事は本質的に難しく、また全体の構造も複雑・難解なものになりがちです。
私は、他の物事も含め、とにかくアウフヘーベン的に物事を理解しようとする性質があります。これは、私が数学という学問を学び、研究していた事に起因する部分もあります。数学は他の学問と比較して特に異質な部分があり、原則として証明される事は「その証明が間違っていない限り」全て正しいと考えられます。そうすると、仮に新しい数学的なパラダイムがもたらされる場合にも、それは常にアウフヘーベン的な側面を持ちます。証明が間違っていない場合は、その理論の公理を満たすような存在については必然的に、その理論によって導かれる性質を全て満たす事が論理的に示されるからです。これが、私の中で「必ずしも根本的に間違っていない場合であっても、アンラーニングに意味がある」という事の理解を阻害していたと思います。
この考察以外で、他に私自身の理解に時間がかかった事柄としては、組織論やマネジメントというような事があります。10年以上前、大学で部活動をやっていた頃、しばしば自分より20歳も30歳も上のOBが、組織論やキャプテンシーというような観点で、部のあり方・目指す事についての提言をする事がありました。私は愚かで、それらの事が本質的に理解できなかったのですが、それは「個が戦う競技において、本質は個の能力や練習によるものである。個人と個人の関係性などは影響あるにしても、(特に日本では形式的な存在としてしばしば君臨しているところの)組織体制は個に対して本質的に影響を与えない。」という事を強く思っていたからでした。このような信念を獲得するに至った背景を紐解くと、私は中学も高校も、おおよそ個人として学校の授業を無視して、例えば高校では無駄だから一切の提出物を出さないと一年生の4月に宣言した上で、個人としてテキトーな勉強をして、特に問題なく大学に進みました。この勉強法はあまりにテキトーだったので、大学に進んでから同級生たちを通して効率的な勉強の仕方の存在を目にする事になり、「都会ではこのような勉強の道が整っていたのか」と大変なカルチャーショックを受けた経験があります。しかし、この事がさらに組織無意味論を強調する事になり、「最終的な結果は、個々の具体的なノウハウによってもたらされるのであって、組織によってもたらされるのではない」という事を一層強く思ったのでした。当時の私にとっての学校組織とは、「四当五落」という謎の四字熟語を受験生に強いる一方で非効率な学びを提供する教師の集団であり、同時に建前として形骸化した組織体制に基づく存在でした。
そのような事を思っていた私が、結局その後10年をかけて思い至ったことは、組織デザインが仕事のあり方を規定して、その意味で仕事の質・成果にも影響するということで、過去の自分の考えをある程度包摂しながらも次のステップに進むという事でした。
ただ、これもおそらく一般的な組織論の体系を見ただけでは満足できませんでした。日本の形式的な組織と実態としての組織の乖離、戦時における日本軍の下剋上(一部の青年将校が上層部を無視して事を進める)、というような事の具体的な指摘があって、はじめて自分の経験と知が整合的に結びつき、受け入れる事ができました。
私が愚かだから10年かかった、というだけの事ではあるのですが、一方で、いわゆる言語的な意味での理解力という観点において、私は試験成績的には平均よりもだいぶ上の成績でした。それであっても、「今の自分の知識を絶対に捨てずに、受け入れられる説明がついて初めて受け入れる」という在り方を堅持した事によって、きっと多くの人が自然に受け入れられるであろう事実を理解するまでに10年かかる事になりました。ここでアンラーニングの能力があれば、その時間はほぼゼロだったと言えるでしょう。このような時、私は自分の無能さを痛感します。
もちろん、これは一つの極端な場合であって、大局的な戦略としてのアウフヘーベン、あるいは既得の知に頑固である事が一方的に悪いことだとは思っていません。私のコアコンピテンシーとされる能力も、アウフヘーベンに拘る事が良く作用して得られたものが多くあると思っています。
しかし、局面によってはアンラーニングには劇的な効果がある。そのような事を改めて強く認識したので、このような考察をまとめました。

おまけ

トップ画像がなぜ緑のたぬきなのか?それは、ある人物がアウフヘーベンという言葉を広めたからで、また同時に、その人物が「失敗の本質」という、日本軍の失敗を組織論の立場から分析した上で組織的なアンラーニングの必要性を述べた本を愛読書として挙げているからです。このタイトルに対して、彼女以上に適切な人は見つかりませんでしたが、フリー素材がなかったので、緑のたぬきにしました。

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