魔法はないし、大抵のことに意味はないかもしれないという話
まえがき
なんだか久しぶりに「面白いな」という本に出会った。
今の僕には「難しい1冊よりもかんたんな100冊」のほうが良いのかもしれない。
読む本がないからと行って急に難しい本が読めるようになるわけでもない。だからといってどんな本でも盛り上がれるかと言われれば、そんなこともない。
こんな曖昧な状態で1ヶ月過ごしてきた。入れるものがないのだから、出すものはないはずだ。久しぶりに本を少しずつ読み始めたら、少しだけ排出という行為を行いたくなってきた。というより、行わさったといえばよいか。
書くという行為は義務でも仕事でも何でもない。出力する手段の一つでしか無い。でもこうやって出しているときはおもろい。
幼稚でも、低レベルでも外に出すことが良い。いわば儀式。
カタカタパソコンで打つ。これが良いのだ。それで満足。
自己啓発の魔法
ぼくはいわゆる自己啓発の魔法みたいなのは信じていない。
信じられるほどの効果を出していないだけと言われれば、それだけなのかもしれない。
理想は常に現実を見た者だけが叶えられると思っている。
なんだか自己啓発の世界は僕にとって、異世界なのだ。
今でも努力という言葉が好きになれない。
自己啓発、ビジネス書。僕は今でも買うし、読む。でもやっぱり、現実を直視しているとは思えない。
夢を語ろう。夢は大事だ、という人がいるのはすごくわかるが。
僕は現実を見つめないことのほうが残酷だと思う。いわば夢っていうのは雲の上のものなのだ。
生きているうちに届くことはない。でも生きている間は雲の上にあるようなものだし、目指すものがないと死んでしまう。
いわばそういった人にとって、夢は叶えるものじゃなくて追っかけるものなのだ。追っている自分がいいとか、追っている状態がないと今までやっていたことが無意味になるとか。
言ってしまえば、今行っていることの殆どの行為は無意味なんだ。人間からアリを見たときに、餌の大きさで競っていたら「クダラねぇ」ってなるのと同じ。ボールを何キロか速く投げようが、そんなの「クダラねぇ」になってしまう。
それが言ってしまえば現実なわけで、ほとんどのことに意味はない。
でも面白いのがそこから先なのかと思う。
意味がないって最高じゃないか?だって何しても良いってことだから。まぁ、別に意味があっても何してもいいんだけど。
死んだときに何も残らないのなら、何をしたっていいと思う。それは自由だ。何にも縛られない。
ここに現実を見ることの「面白さ」があると思う。
カフェでも周りを気にせずにスマホのスピーカーで音を流して動画を見てる人がいた。今までの僕なら
「おい!また使徒襲来かよ!やめろよ!」と思っていた。
でも今日は違った。
「え〜なんか定期的に音を鳴らしてくれてパソコンに集中しすぎる状態から解き払ってくれる人ですか?神すぎ〜」
これには自分も驚いた。
そもそも全て使徒と捉えていたのが、僕の認知の問題であった。
完全に使徒=悪という図式ができあがっていたのである。
とまぁ、こんなふうに認知を変えたわけだけども。
「大抵の事意味ないじゃ〜ん、なんだよ生きる意味って」って思うのはニヒリズムっていうらしい。ニーチェって人が考えたんだって。
さっきの本でもニーチェは永劫回帰(同じことが永遠に繰り返されること)が最も苦痛なら、その同じことの認知を変えて少しでも前向きに生きようぜ!ってことを言っていた。
僕はこれに激しく同意する。なんかいいな〜って感じするから。
日常という日常も見てみたら全然いつもと同じじゃない。
なんとなく同じ、はあるとしても全く同じは存在しないなら、そこに「面白さ」を見出すかどうかは自分たちの認知の問題のように思う。
でもその前に健康を達成しなければならない。これがまず必要だし、一旦ニヒっちゃうくらいがいい
身体とか、目の前に見えるものの認知がおかしいと、現実を直視できないから。いたって簡単だ。
多分、少しそこがずれていたら全てが「悪い」風に見えてしまうんだと思う。
だから、まずは健康。そして現実を見る。それから楽しい。
この流れだと今は思う。でも、ニーチェに関してい今僕はこういった状況なので自分で勉強をすることをおすすめする。
とまぁ久ぶりに出力した。アウトプットをよくするにはインプットを良くする。
良い文章を書きたかったら、良い読書をする。
良い音楽を作りたかったら、良く音楽を聴く。
これに尽きる。