イラストで見る、倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史(1)
見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト
2021年から実施している「見る場所を見る」の第4弾(8月開催の「見る場所を見る2+」を含む)となる展覧会「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」が、本日12月21日(木)からGallery そらで始まりました。会期中はあいにく雪が続く見込みで、かつ年末の慌ただしい時期の開催となりますが、3ヶ年計画で進めてきたプロジェクトの一旦の締めくくりとなるこの機会、ぜひともお越しいただけましたら幸いです。
また12月23日(土)17:00からは関連企画として、佐藤洋一さん(早稲田大学教授)をゲストにお招きしてオンライントークを行います。断片的・限定的な記録から、いかにしてかつての都市文化や人々の営みを想像・再現することができるかを議論します。参加無料ですが要予約としておりますので、開催前日24:00までに以下のフォームからお申込みください。
このnoteでは、会場で配布している「鑑賞ガイド」に収録の展覧会第1部解説文「イラストで見る、倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史」を2回に分けて掲載します。また第2部解説文「映画ファンの「ハレの場」としてのフェイドイン・マンスリーレイトショー」も企画者の杵島和泉さんがnoteに掲載予定ですので、ぜひ併せてご覧ください。
第1部「イラストで見る、倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史」(1)
企画:佐々木友輔、Clara
展覧会の第1部では、鳥取県中部の倉吉市と郡部にあった映画館とレンタルビデオ店を調査し、鳥取で活動するイラストレーターClaraによるイラストで再現します。また佐々木友輔の制作による年表と解説文を付し、倉吉市と郡部の映画史を概観できるようにしました。
戦前の倉吉では、1920(大正9)年に芝居小屋から常設映画館になった旭座、1925(大正14)年開館の日本館、芝居小屋の寿座の3館が、長らく映画興行を行なっていました。戦後には、有楽座や富士館など次々に新たな劇場が開館し、両館が向かい合う「有楽街」は倉吉随一の歓楽街として賑わいを見せます。他方、郡部の映画館は市内と比べて情報が少なく、まだ謎に包まれた部分が多いのが実情ですが、複数の地域をまたいだ配給組合の設立や、表向きは養蚕場として建てられた劇場など、興味深い記録が多数残されています。地方映画史の中でもさらに周縁的なものと見做されがちな郡部の映画文化に注目することで、本展を、3ヶ年計画で進めてきた「見る場所を見る」の一旦の締めくくりにすると共に、地方から日本映画史を再記述していく試みの新たな第一歩にできればと思います。
第1章 大正町に集う映画館(1904〜1945)
鳥取県内にかつてあった映画館を調査する上での基礎資料は、『鳥取新報』や『因伯時報』、『日本海新聞』といった地元新聞紙です。各劇場が出していた宣伝広告に加え、「演藝」欄や「今週の映画」欄を読み込むことで、当時の鳥取映画界隈の状況や上映作品の傾向が浮かび上がってくるのです。ただし、それらの紙面に掲載されるのは基本的に「市」内の映画館のみで、郡部の映画館の広告や記事が載ることは稀でした。そのため、倉吉も1953(昭和28)年に市制が施行されるまでは資料が乏しく、断片的な情報しか残されていないという問題があります。
『倉吉市誌』(倉吉市誌編さん委員会、倉吉市、1956年)によると、倉吉で初めて活動写真が上映されたのは1904(明治37)年頃だとされています。瀬崎町にあった芝居小屋の寿座(壽座)で、煙草を吸う様子や鉄砲で撃つ様子を記録したフィルムが2銭ほどの料金で上映されました。ただし、1898(明治31)年にはすでに鳥取県内で活動写真会が行われた記録があり、またその時点で「活動写真は左まで珍らしからず」との記述もあることから、倉吉でもより早い時期に上映が行われていた可能性は十分にあるでしょう。他方で、山間部や農村地域に活動写真が入ってくるのはもっと遅く、大正初期から中頃になって初めて鑑賞した人が多かったとも伝えられています。
倉吉に初めて常設映画館ができたのは、1920(大正9)年4〜6月頃のこと。1902(明治35)年頃に開館した芝居小屋の旭座(大正町)を、大黒座(鳥取市)の座主・佐々木岩蔵が借り受け、改築して常設映画館としての興行を始めました。その後、宇崎正頼という人物が大阪から倉吉に帰り、旭座を又借りして映画興行に参入。さらに1925(大正14)年1月1日には、同じ大正町に2つ目の常設館・日本館を新築します。宇崎の詳細は不明ですが、同姓同名の人物が当時の地元文芸誌に寄稿したり、画家・前田寛治との交流の記録が残っていることから、興行目的だけでなく映画の文化的側面への関心も強かったのではないかと推測できます。いずれにせよウサキ・キネマ社(宇崎興行)が、戦前における倉吉の映画文化を牽引する役割を担いました。
日本館については、倉吉だけでなく周辺地域の郷土誌にも記述が見られ、鳥取県中部でひときわ強い存在感を放っていた劇場であったことが窺えます。青谷中町など広範な地域で出張上映を行ったり、専属の楽隊を組織して、大作封切りの際や出張上映の際に町回りをし、観客の呼び込みを行いました。また同館の専属弁士・森本良一は「中部きっての名弁士」として評判の人物でした。トーキーの登場で活弁文化が衰退した後も、小学校講堂で行われた巡回映画会などに招かれて名調子を披露し、多くの観客を集めたと言われています。
1943(昭和18)年版の『全国映画館名簿』には、倉吉第3の常設館・倉吉映画劇場の名が記されています。所在は大正町で、経営者は津和野保博。1940年台初頭には最大3つの映画館が同じ大正町内にあったということになります。倉吉映画劇場は少なくとも1947(昭和22)年までは興行を続けていたようですが、戦中・戦後すぐの時期は特に資料が乏しく、それ以上を知る手がかりは今のところ見つかっていません。なお同時期の周辺地域の状況としては、瀬崎の寿座で、駐留軍の指導のもと外国映画(セントラル映画)の上映が行われるようになったことが『倉吉市誌』に記されています。これを機に寿座は常設映画館的な役割を担うようになり、倉吉住民の外国映画への関心を高めることにも貢献しました。
第2章 明治町・有楽街の賑わい(1945〜1974)
1950(昭和25)年10月、宇崎興行が倉吉町明治町に新たな映画館・有楽座を開館しました。洋画専門の劇場として出発しましたが、翌年1月12日には東宝との連携を発表。その後も大映や松竹の映画を掛けるなど、洋画と邦画を組み合わせた上映プログラムを組み、特に地元のインテリ層からの人気を集めたそうです(「映画館めぐり(14)有楽座」『日本海新聞』1964(昭和39)年6月20日付)。また同館は倉吉線・旧倉吉駅(後に打吹駅に改称)が近かったこともあって、周囲に続々と飲食店が進出し、倉吉屈指の賑わいを見せる盛り場が形成されていきます。その一帯は映画館から名前を取り、「有楽街」と呼ばれるようになりました。
1953(昭和21)年10月には、富士館(冨士館、倉吉冨士館)が開館します。場所は明治町で、有楽座の目と鼻の先でした。同館の経営者・竹の家啓三郎は、豊富な興行経験や海外経験を持ち、やがては7期に渡って県議を務める、地元の名士として知られています。1927(昭和2)年に竹の家興業社を設立して大衆演劇団を組織し、軍の慰問で全国を巡ったり、渡米公演や満洲公演も行っていましたが、終戦直前の1946(昭和21)年2月に倉吉に帰郷。旭座の経営を引き継いで当地での映画興行に参入し、その後、富士館を新設するに至ったのです。
上記2館の他にも、1950年代の全国的な映画文化の隆盛と連動して、倉吉の劇場数も徐々に増えていきます。1953(昭和28)年12月末日には、寿座が演劇興行を完全に廃止し、翌年1月から大映の常設映画館として再出発しました。また1955(昭和30)年12月には、現在のJR倉吉駅(当時は上井駅)に近い上井町に新たな映画館・えいらく館(栄楽館)が開館し、60年代に入ってからは上井館(倉吉上井館)に改称しました。日本館と旭座を所有する竹の家興業社も、1957(昭和32)年10月4日に倉吉東映を新設し、旭座の上映作品をそちらに移し替えて興行を行っています(これを機に旭座は休館したか、芝居小屋に戻されたものと思われます)。
このように、1955(昭和30)年からの数年間は、倉吉市内に同時に6館の劇場が並立していました。えいらく館以外の5つの映画館はいずれも旧倉吉駅と白壁土蔵群周辺の徒歩圏内にあり、地元の観客は様々な映画を気軽に楽しむことができました。しかし6館体制は長続きせず、1957(昭和32)年末から1959(昭和34)年にかけての時期に寿座が閉館。さらに1963(昭和38)年6月には倉吉東映、1966(昭和41)年頃には上井館が閉館してしまいます。ここで劇場の減少は一旦落ち着きを見せ、その後、1980年代初頭までは日本館・有楽座・富士館の3館体制が続きます。
生き残りを図る映画館は、創意工夫を凝らして観客をつなぎ止めようとしました。倉吉最古の歴史を誇る日本館は、1961(昭和36)年に劇場前を「現代感覚ふう」に改装。大作や話題作をいち早く上映すると共に、山陰トップクラスと言われる画面明るさや音響の良さ、入場料の引き下げによって観客に満足感を与えようとします(「映画館めぐり⑧倉吉日本館」『日本海新聞』1964(昭和39)年4月11日付)。また富士館も、幅広い年齢層を惹きつける「質より量」の上映プログラムで経営を安定させると共に、小中高の教職員組合が主催する映画祭を行うなど視聴覚教育に力を入れ、館の独自色を打ち出しました(「映画館めぐり③倉吉冨士館」『日本海新聞』1964(昭和39)年2月29日付)。
第3章 レンタルビデオ/自主上映/シネマエポック(1975〜2023)
長らく倉吉の映画文化を牽引してきた日本館ですが、1975(昭和50)年5月から翌年5月頃に休館し、そのまま閉館してしまいます。さらに1985(昭和60)年には、国鉄再建法によりローカル赤字線に選定された倉吉線が全線廃止となり、駅近の歓楽街として栄えてきた有楽街も大きな打撃を受けました。1986(昭和61)年の8月末で有楽座が閉館し、倉吉に残る映画館は富士館のみとなります。衰退し行く映画館に代わり、80年代中頃からは倉吉市内や郡部にもレンタルビデオ店が増えていきました。例えば1990(平成2)年に米田町にオープンしたフォーラム倉吉店は、ビデオとCDに加えて本やファミコンも取り揃え、会員向けの様々な特典を用意していたそうです(『スペース』1991(平成2)年7月号、スペース企画)。オープン当初のレンタル料金は、ビデオが1泊380円、CDが1泊300円でした。
エッセイスト・村松友視の著書『黄昏のムービー・パレス』(平凡社、1988年)には、当時の富士館の外観写真が掲載されています。このときの竹の家興業への取材は、富士館リニューアルのための取り壊し直前のタイミングで行われました。1階がテナント、2階が映画館と竹の家一家の住居、3階がビジネスホテルというように、複合的な機能を持たせた建物を新築することで経営を安定させ、映画館の維持を図ったのだそうです。しかし5年後、1993(平成5)年9月には、ついに富士館も休館を余儀なくされ——不定期に「春のアニメフェア」や「スーパーヒーローフェア」などが催されはしたものの——そのまま閉館してしまいました。
こうして倉吉市内から常設映画館が姿を消し、当地の映画文化の危機を感じて立ち上がったのは、映画を愛する地域の人びとでした。1995(平成7)年に金沢瑞子が代表を務める倉吉シネマクラブが設立され、4月に第1回例会として『パルプ・フィクション』の上映を実施。以後、毎月1回の例会を続けていきます。また同年8月には、興和紡績の跡地を活用したドライブインシアター企画として、倉吉シネ・ロマン映画祭が開催されました。街に常設映画館がないからこそ、自らの手でオルタナティブな上映の場を作り出そうとする試みが盛り上がりを見せたのです。
1996(平成8)年には、倉吉駅から徒歩10分のところにあるショッピングセンター・パープルタウン内に倉吉シネマエポックがオープンし、市内に再び常設映画館が戻ってきました。3つのスクリーンを擁し、最新の上映設備を備えた新たな劇場の登場は、倉吉の映画愛好者にとってまさに画期的(エポック)な出来事だったようです。また同館を経営する有限会社世界館は、鳥取市内の映画館シネマスポット フェイドインも所有していました。両館で日程をずらしてレイトショー企画を実施するなど、積極的な姿勢で観客を呼び込み、鳥取・倉吉の映画文化を盛り上げていきました。
倉吉市内のレンタルビデオ店は個人経営の店舗やローカルチェーンの店舗が大半でしたが、1999(平成11)年にTSUTAYA倉吉店(清谷町)と倉吉中央店(宮川町)、2007(平成19)年にはゲオ倉吉店(山根)がオープンし、2023年12月現在もTSUTAYA倉吉中央店を除く2店舗が営業を続けています。また特筆すべきは、1990(平成2)年に昭和町の酒屋・しかやに併設されたレンタルハウスPOPです。表向きは、すでにレンタルビデオ業は行われていないように見えますが、実は細々と貸出を続けており、実際に利用する人も居るとのこと。インターネットの動画配信を見るのはハードルが高いという高齢層には、再生ボタンを押すだけで鑑賞が可能なビデオの需要がまだあるのです。
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