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地方映画史研究のための方法論(33)パラテクスト分析①ロラン・バルト「作品からテクストへ」

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」を開催した。

2024年3月には、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)を刊行した。同書では、 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。(今井出版ウェブストアamazon.co.jp

佐々木友輔・杵島和泉『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』今井出版、2024年

地方映画史研究のための方法論

地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、2023年度は計26本の記事を公開した。杵島和泉さんと続けている研究会・読書会で作成したレジュメをに加筆修正を加えた上で、このnoteに掲載している。年度末ということで一時休止していたが、これからまた不定期で更新をしていく予定。過去の記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論

大衆文化としての映画
(27)T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論
(28)ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
(29)F・ジェイムソン「大衆文化における物象化とユートピア」
(30)権田保之助『民衆娯楽問題』
(31)鶴見俊輔による限界芸術/大衆芸術としての映画論
(32)佐藤忠男の任侠映画・剣戟映画論

パラテクスト分析
(33)ロラン・バルト「作品からテクストへ」

ロラン・バルトとノンフィルム資料

ロラン・バルト(1915 - 1980)

ロラン・バルト

ロラン・バルトRoland Barthes、1915 - 1980)は、フランス・シェルブール生まれの批評家・哲学者・記号学者。スペイン国境近くのバイヨンヌで育ち、パリ大学で学ぶ。1941年からは結核のためスイスに渡り、療養生活を送りながら初めての文芸批評を執筆した。戦後はルーマニアやエジプトで働き、帰国してからは国立科学研究センター研究員に着任。1953年に『零度のエクリチュール』を出版し、以来、現代思想や文学、写真、映画、演劇、ファッションなど、様々な分野に影響を与える重要な著作を多数発表してきた。1962年からは高等学術研究院の研究指導教授、1976年からはコレージュ・ド・フランスの教授を務める。1980年、『明るい部屋』の出版直後の2月25日に交通事故に遭い、3月26日に逝去。

上記以外の主な著作に、『現代社会の神話』(1957)、『記号学の原理』(1964)、『モードの体系』(1967)、『S/Z』(1970)、『サド、フーリエ、ロヨラ』(1971)、『記号の国』(1970)、『テクストの快楽』(1973)、『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(1975)、『恋愛のディスクール・断章』(1977)など。

ノンフィルム資料(映画関連資料)の分析

バルトの映画についての考えは、『ロラン・バルト映画論集』(ちくま学芸文庫、1998年)や「映画について——「カイエ・デュ・シネマ」誌によるインタヴュー」(『映像の修辞学』所収、ちくま学芸文庫、2005年)などで読むことができる。だが例えば「映画館から出て」と題したエッセイで、「映画の話をする時、私は、いつも、映画以上に《映画館》のことを考えずにはいられない」と自ら述べているように(『第三の意味』所収、沢崎浩平 訳、みすず書房、p.101)、バルトの映画論は、作品本編に対する直接的な言及よりもむしろ、映画を取り巻き、その体験の形成に関わっている周辺的なメディアや事象について語る際に、より精彩を放っているように思える。

後述するように、バルトは「第三の意味」と題した論考(1970)において、セルゲイ・エイゼンシュテインが監督した映画のスチル写真の分析を行った。スチル写真を映画本編の「要約」や「見本」として捉えるのではなく、元の映画から切り離されて独立した一つの「断片」として捉え、そこから新たな意味が産出されるプロセスを描き出そうとしたバルトの試みは——広告ファッションなど、映画と直接的・間接的な関わりを持つメディアについての論考とも併せて——所謂「ノンフィルム資料」を分析する上で、大いに参考になるだろう。

ノンフィルム資料とは、チラシやポスター、ロビーカード、スチル写真、映画館プログラム、新聞広告など、主に映画の製作や宣伝のために用いられる、フィルム(映画本編)以外の関連資料を指す(「国立映画アーカイブ お仕事は「映画」です。 」第4回、映画.com)。ノンフィルム資料は長らく、フィルム(映画本編)と比べて価値が低いものと見做され、収集や保存も後回しにされてきたが、近年では、ノンフィルム資料もまた映画文化の形成に重要な役割を果たしてきたと再評価され、様々な研究が行われるようになった。例えば近藤和都は『映画館と観客のメディア論——戦前期日本の「映画を読む/書く」という経験』(青弓社、2020年)において、1907年から1944年にかけて日本で発行・配布されていた「映画館プログラム」と研究対象として、観客の一連の映画体験における二次的なメディア(ノンフィルム資料)の役割を論じている。ノンフィルム資料の価値がある程度認知されるようになってからは、「フィルムではないこと」を殊更強調するのではなく、シンプルに「映画関連資料」と呼ばれることも増えてきている。

本稿では、「ノンフィルム資料分析」に関連した文献を紹介するシリーズの第1回として、ロラン・バルトによる広告イメージの分析やスチル写真の分析を取り上げる。また、それらの論考に通底するバルトの基本的立場や考え方を確認するために、「作者の死」および「作品からテクストへ」という2つの重要なキーワードを紹介することにしたい。

広告イメージの分析——外示/共示

言語とイメージの差異——「イメージの修辞学」(1964)

ロラン・バルトは1964年に発表した論考「イメージの修辞学」(『映像の修辞学』所収、蓮實 重彦・杉本 紀子 訳、ちくま学芸文庫、2005年)において、イメージはいかなるかたちで記号の体系を作り出しているのか、そして人は、イメージが持つメッセージをどのように受け取っているのかという問いを立てている。この問いを理解するためには、バルトが依拠するソシュール言語学の基礎的な知識を前もって押さえておく必要があるだろう。

ソシュールによれば、言語(例えば日本語や英語)はあらゆる物事をデジタルに分節することで成立する「差異の体系」である。シニフィアン(意味するもの/記号表現)とシニフィエ(意味されるもの/記号内容)が結びついたものがシーニュ(記号)であり、その結びつきによって意味が生じるプロセスのことを「意味作用」と言う。シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の結びつきは恣意的であり、例えば日本語で「木」と呼ばれるものが、英語では「tree」と呼ばれる。名指したい対象=シニフィエ(意味されるもの)を「木」および「tree」というシニフィアン(意味するもの)で呼ばなければならない必然性はどこにもない。その記号の体系内での了解が取れていれば、他の言葉を当てても一向に構わない。こうした記号の体系・規則的なシステムは「コード」と呼ばれる。人びとは自分の属する文化や社会が採用しているコードを通じて、日々コミュニケーションを行っている。

シニフィアンとシニフィエ

 他方、イメージは言語のようにデジタルに分節されていないという点で、アナログ的なものと言える。例えば以下の画像には、確かに「木」や「tree」と呼びうるものが記録されているが、木の種類や数、繁茂の仕方、空やその青さなど、単一の語では表現しきれない様々な意味を含んでいる。補足しておくと、映画研究に記号学を導入したクリスチャン・メッツは、映画には言語における「音素」や「語」に相当するものがないと指摘し、映画の最小単位として扱われるショットも、「文」のようなものとして捉えるべきだと述べている(「映画——言語か言語活動か」武田潔 訳、『映画における意味作用に関する試論——映画記号学の基本問題』所収、浅沼圭司 監訳、水声社、2005年、p.109、原著1964年)。確かに以下の写真であれば、「木」や「森」の一語に相当するものと見做すよりも、「青空のもと、緑の木々が密集して茂っている」のような文に近いものとして捉えるほうが、相対的には正確であると言えるだろう。 

以上のようなイメージの特徴から、一方には、イメージは言語と比べて未発達な体系であると見做す者が現れ、他方には、イメージには言葉には表せない豊かさがあるのだと主張する者が現れるという状況が生じることになる。だがバルトは、両者どちらの立場にも立たず、イメージが言語とは異なる仕方でコミュニケーションを成立させていることを重視する。すなわち、イメージは言語が成立するために不可欠な「文節」を欠いていながら、いかにしてコード(記号の体系や規則的なシステム)を作り上げ、意味を生成しているのかを問うのである。

広告イメージの分析

上記の問いを検討するために、バルトは「広告」に関するイメージを考察対象とする。なぜなら、広告の意味作用は意図的なものであり、顧客にそのメッセージが明確に伝わることを目的として構成されているから、イメージのコードを分析するのに都合が良いのだ。ここで具体的に取り上げられるのは、パンザーニ社の食料品の広告である。

パンザーニ社の食料品の広告

 赤い背景の前で、パスタやパスタソースの缶、パルメザンチーズなどの商品が、トマトや玉ねぎなどの野菜と共に網袋に入れられており、いくつかはそこからはみ出している。この広告が持つ様々なメッセージを、バルトは言語的メッセージイコン的メッセージに区別した上で、さらに後者を字義的メッセージ象徴的メッセージとに二分し、以下の三分類を提唱する。 

  1. 言語的メッセージ
    広告の下部に記載されたキャプションや、商品のパッケージに記載された文字。これはフランス語というコードで書かれており、その解読にはフランス語の読み書き能力と知識を必要とする。また「PANZANI」という記号は、単にメーカーの名前を表しているだけではなく、その語の発音の響きによって、「イタリア性」とでも言うべき追加のシニフィエ(意味されるもの)も伝えている。

  2. 字義的メッセージコード化されないイコン的メッセージ
    パスタや缶、網袋や野菜など、写真として映し出されたイメージは、シニフィエ(意味されるもの)とシニフィアン(意味するもの)との結びつきが不可分であり、ほとんど同語反復的である。このメッセージを読み取るためには、私たちの知覚に本来的に備わった知や、人類学的な知(イメージとは何か、トマトや網袋、パスタの包みは何であるかといった基本的な知)以外は必要ない。言語のようにシニフィエ(意味されるもの)とシニフィアン(意味するもの)恣意的に結びつける作業(コード化)や、コード(記号の体系)から記号を取り出す作業が行われないという点で、字義的メッセージとは、すなわち「コードのないメッセージ」(p.16)である。
    バルトはこうした字義的メッセージを持つイメージを、外示的イメージと呼ぶ。外示デノテーション dénotation)とは、明らかな意味や一般的な意味を指す、言語学の術語である。

  3. 象徴的メッセージコード化されたイコン的メッセージ
    食料品を入れた網籠は「買い物帰り」であることを想像させ、またこれらを用いて料理をすることは、缶詰料理や冷凍食品といった機械的文明における手軽な食品品の調達と対立する行為として意味づけられる。黄・赤・緑の三色を主とした色彩は——「パンザーニ」という字義的メッセージと共に——「イタリア性」を強調している。様々な食料品がひとまとめにされた様子は、パンザーニ社が盛り合わせ料理に必要なものすべてを提供すると言っているかのようである。そしてこのポスターの構図は、過去に描かれた多くの静物画を想起させるだろう。
    このように、象徴的メッセージは文化的なコードを通じて伝達されるものであり、そうしたメッセージを持つイメージは共示的イメージと呼ばれる。共示コノテーション connotation)とは、言外の意味や暗示的な意味を指す術語である。共示的イメージを読み解くためには、その人が「文化的な知」を持っていなければならない。 

言語的メッセージによる投錨と中継

続いてバルトは、テクストとイメージ、すなわち言語的メッセージとイコン的メッセージの構造的な関係について検討する。現在は「イメージの文明」だとしばしば言われるが、マス・コミュニケーションの領域で流通するすべてのイメージが何かしらの言語的メッセージ(タイトルやキャプション、報道記事や漫画の吹き出しなど)を伴っていることを踏まえれば、現在もまだ——また、かつてないほど——「エクリチュールの文明」なのだと言うべきだろう。

イコン的メッセージに対する言語的メッセージの機能として、バルトは「投錨」と「中継」を挙げる。あらゆるイメージは多義的であり、一つのシニフィアン(意味するもの)について無数のシニフィエ(意味されるもの)を持つため(「揺れ動く鎖」と形容される)、どうしても意味に対する疑問や不確かさを招き寄せてしまう。言語的メッセージによる「投錨」は、そうした「揺れ動く鎖」を固定し、読み取られる意味を特定したり、解釈を誘導するための技術の一つである。

他方の「中継」は、映画や漫画の台詞のようなパロール(話し言葉)として現れる。それは、連続したイメージの中には含まれていない新たな意味を配置することで行為や話を前に進めたり、イメージだけでは描写しきれない物語世界を補完する役割を果たす。

写真——コードのないメッセージ

イコン的メッセージを字義的メッセージと象徴的メッセージとに区別することは、便宜的な操作である。通常、人は両者を区別せずにイメージを読み取っているのであり、純粋な状態での字義的メッセージを見かけることは滅多にない。何かしらの社会に属している限り、人は必ず人類学的な知を超えた文化的な知を行使し、字義的メッセージと象徴的メッセージを共に読み取る。字義的メッセージとは、頭の中で意図的に共示的な記号を消し去った後にまだ残っているメッセージ(欠成的メッセージ)なのである。

字義的メッセージを持つ外示的イメージは、上述のように共示を欠いているため(欠成的)、特定の意味が不在であると共に、潜在的にはあらゆる意味が充満していると言うこともできる。共示から自由になった外示的イメージは、完全に客観的で無垢であるというユートピア的性格を持つのである。

あらゆるイメージの中で、写真だけが、文節された不連続な記号およびその体系(コード)を必要とせずに、字義的メッセージを伝達する能力を持っている。先にも述べたように、写真は「コードのないメッセージ」なのである。

このことを説明するために、バルトはデッサン写真の比較を行う。デッサンの場合、イメージを描写するための特定の様式があり、またそれを描くための技法やその技法の修得が必要になるため、必ずそこに共示(コノテーション)が構成されることになる。従ってデッサンは——写真のように「自然」と「文化」の関係ではなく——「文化」と「文化」の関係として位置づけられるだろう。

他方、写真の場合は、シニフィエ(意味されるもの)とシニフィアン(意味するもの)との結びつきが不可分かつ同語反復的であるため、両者の関係は「変形」ではなく「登録」であると言うべきだろう。またコードの不在は、「自然である」という神話を強化する。すなわち写真は、「自然」と「文化」の関係として位置づけられる。あたかも初めに人間的な干渉を受けない機械的・客観的な記録としての写真があり、その上に、構図や距離、ソフトフォーカス、長時間露出など共示の次元に属するものが配置されるといった見方がなされるのである。

またバルトは、写真は人類史上前例のない新たな意識のタイプを生み出したと述べている。すなわち写真は、「かつてそこにあった」(o.31)という、自分自身が経験したものではない現実を所有しているという意識を鑑賞者にもたらす。現在の自分自身からは明確に隔てられているというこの「時間的冷ややかさ」(p.31)は、写真に自己の主観やイメージを投影しようとする力を弱めるだろう(実際、心理テストのほとんどはデッサンにより行われる。写真が用いられることは滅多にない)。

イメージの修辞学

共示的イメージは、文化的なコードを通じて読み取られる。同じ一つのイメージでも、そこから読み取られるメッセージは一つではない。文化的なコードの種類や、個々人の持つ知識の引き出しの数によって、異なる様々なメッセージが読み取られることになるだろう。

あるイメージ全体における共示的イメージと外示的イメージの関係は、範列=パラディグム(共通する特徴を持ち代替可能な記号間の関係)と連辞=サンタグム(記号と記号を結びつける際に働いている関係や規則)の関係として論じられる 

範列と連辞の関係
            | 範列軸↓ |
連辞軸→| 私 | は | 映 画  | を | 見る
            | テレビ  |
            | 展覧会  |

  手短にまとめれば、範列(パラディグム)の領域にある共示項(各共示的イメージにおけるシニフィアン)は、連辞(サンタグム)の領域にある外示的イメージによって結び合わせられ、それぞれのシニフィエ(意味されるもの)を共有して一つのイデオロギーを形成する。バルトは、このようにして形成されたイデオロギーの、シニフィアン(意味するもの)としての側面を「修辞学」(レトリック)と呼ぶ。例えばパンザーニ社の広告は、パスタや色彩など、画面に含まれる外示的イメージと共示的イメージの全体を凝集することで「イタリア性」という国民性のイデオロギーを作り上げているのである。

またこの時、連辞(サンタグム)としての外示的イメージは、パロール(話し言葉)に限りなく近い働きをしているが、それは「コードのないメッセージ」であるために、実際には意図的・人為的に作られているはずの共示的イメージを、あたかも無垢で自然なものであるかのように見せかける働きをしているのである。

スチル写真の分析——自然な意味/鈍い意味

「第三の意味」(1970)

その後、バルトは1970年に発表した「第三の意味」(『映画理論集成』所収、諸田和治 訳、フィルムアート社、1982年)で、セルゲイ・エイゼンシュテインの映画のフォトグラムスチル写真)の分析を行っている。そこでバルトは『イワン雷帝』(1944-1946)のスチル写真(図1)を例に挙げて——「イメージの修辞学」で広告のメッセージを三分類したのと同様に——映画の意味を三つのレベルに区別している。ただし、字幕などが含まれないスチル写真を分析対象とするがゆえに、「言語的なメッセージ」に相当するものは考慮されず、代わりに、新たな項目=「第三の意味」が追加される。 

(図1)『イワン雷帝』(1944-1946)のスチル写真
  1. 情報伝達・コミュニケーションのレベルで読み取られる意味(第一の意味)。上記の写真からは、高貴な身なりをした若者(ロシア皇帝)の頭上に二人の男が黄金を注いでいることが見て取れる。このように、舞台装置や衣装、登場人物、それらの関係や、そこから把握される物語の流れといったものは、すべてこのレベルに属する。これは「イメージの修辞学」における外示的メッセージに相当すると見て良いだろう。

  2. 象徴的(サンボリック)なレベル、もしくは意味作用のレベルで読み取られる意味(第二の意味)。頭上から黄金を注ぐことが帝王の洗礼の儀式を意味することや、この場面が『イワン雷帝』における「黄金」や「富」の主題を意味していること、あるいはそこにエイゼンシュテインという作家を象徴するような演出・表現を見て取るといったことはこのレベルに属する。象徴的なレベルは「イメージの修辞学」における共示的メッセージに相当するだろう。

  3.  意味形成性(signifiance)のレベルで読み取られる意味(第三の意味)。「意味形成性」はジュリア・クリスティヴァが提唱した概念で、シニフィアン(意味するもの)が特定の意味を伝達したり表象したりするのではなく、その内部で無限に意味を生産していく働きを持つことを指す。すなわち、見たままの意味や物語上の意味を超えて、その「追加分」として生じるような意味、強く惹きつけられるが捉えどころがなく、理解しようとしてもたちまち逃げ去ってしまうような、不確かで不安定な意味を受け取ることが、意味形成性のレベルに相当する。バルトはこうした、物語やメッセージの理解よりも詩的な把握に関わる意味を「第三の意味」と呼んでいる。第三の意味は観客個々人の解釈に依存するところが大きく、言語化することが難しい。例えばバルトの場合は、先ほどのスチル写真の「二人の廷臣たちの化粧の濃さ、つまり一人は濃く、押しつけがましい化粧を、もう一人は滑らかで上品な化粧をしている」ことや、「一方の男の“愚かしい”鼻であり、他方の男の細く縁取られた眉であり、色あせた金髪、生気のない顔色、一目でかつらとわかるようなその髪型の低俗な不自然さ、石膏色のファンデーションか白粉を塗りたくったような化粧仕上げ」といった部分に、第三の意味を読み取ったと述べている(p.292)。

自然な意味/鈍い意味

 続けてバルトは、第一の意味(情報伝達・コミュニケーションのレベル)および第二の意味(象徴的なレベル)を「自然な意味 le sens obvie」、第三の意味(意味形成性のレベル)を「鈍い意味 le sens obtus」と名づける。鈍い意味自然な意味によって語られる物語を壊すことはないが、後者の秩序とは別様の仕方で映画を構造化している。なお、これらの概念はバルトの遺作『明るい部屋』でも再度検討され、自然な意味は「ストゥディウム」、鈍い意味は「プンクトゥム」という言葉に置き換えられることになるだろう。

ところでバルトが「鈍い意味」という概念を提唱する必要性を確信したきっかけは、『戦艦ポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュテイン、1925)のスチル写真(図2)を見たことであるという。

(図2)『戦艦ポチョムキン』(1925)のスチル写真

そこに映る老女の表情は、エイゼンシュテインが意図して演じさせた「悲しみ」の表現(自然な意味)であるが、同時に、老女が被るずきんが描き出している、眉のところまで不自然に下降した曲線、互いに近寄りつつ反対側に下降している両瞼の曲線、水から揚げられた魚のように苦しげな半開きの口には、悲しみの表現であることを超えて、物語上は必要のない場所に執拗に居座り、観客の感情を動かして不安を与えるような鈍い意味が表れている。だが場面的には連続している次のスチル写真(図3)では、鈍い意味はすでにどこかへ消え去ってしまっている。 

(図3)『戦艦ポチョムキン』(1925)のスチル写真

「映画的なもの」とスチル写真の分析

 映画の本質は「映像が動くこと」であるとしばしば言われる。だがバルトは、そうした「動き」は自然な意味を伝えているだけで、それでなくても他の表現に置き換え可能である以上、映画に固有な特徴とは言えないと指摘する。バルトによれば、映画における本質的なもの——すなわち「映画的なもの」——は鈍い意味(第三の意味)の中に現れてくる。「映画的なもの、それは映画のなかにあって描写することのできないものであり、表現されえない表現なのである。映画的なものとは、言語活動と文節化されたメタ言語が終わるところから始まるのだ。」(p.305)

バルトは、こうした「映画的なもの」を把握するために有効な方法として、スチル写真の分析を行っている。映画館の入口や映画雑誌で見かけるスチル写真は、その映画の全体や諸要素を要約した「見本」や「標本」ではなく、あくまで一部分を切り抜いた「断片」や「引用」であり、それ以上のものではあり得ない。そして、だからこそスチル写真は映画の慣習的な意味や物語上の意味といった自然な意味を超えた、鈍い意味を生み出すことができるのだ。

作品からテクストへ

「作者の死」(1968)、「作品からテクストへ」(1971)

広告であれ、スチル写真であれ、バルトの分析に共通するのは、広告を出す企業や映画・写真の「作者」が伝えようとする正確な意図やメッセージを読み解こうとするのではなく、「読者」が様々な意味を無限に生成していくプロセスを記述しようとすることである。こうしたバルトの方法論の要点は「作者の死」(1968)および「作品からテクストへ」(1971)と題した論考の中で簡潔にまとめられている。バルトはこれらの著作を通じて「テクスト論」の確立に多大な貢献をし、文学研究はもちろんのこと、映画研究における観客論にも直接的・間接的な影響を与えてきた。以下では、『物語の構造分析』(花輪光 訳、美鈴書房、1979年)に収められている上記2つの論考から、「作者」と「読者」、そして「テクスト」という重要な概念についてまとめておきたい。

作者の死

 私たちは普段、映画や文学などの芸術作品の背後に、それを制作した「作者」が存在すると信じている。文学であれば、作者は書物よりも過去に存在し、その書物のために考えたり、悩んだりしながら生きる者であると想定される。文学史や批評、伝記や日記を通じて、「作者」の人格と「作品」が結びつけられ、それを説明する役割を担わされる。「作品」を解読し、「作者」の意図やメッセージを発見することが文学の目的となる。現代の文化における文学のイメージは、作者の人格や経歴、趣味や情熱に関わるもので占められている。

だがバルトは、「作者」は自明に存在するのではなく、仮構されたフィクションであり、近代という社会が生み出した登場人物に過ぎないと指摘する。「作者」はただ書く者であって、それ以上でも以下でもない。書き終わるや否や、そのエクリチュール(書かれたもの。またそこに見られる特徴的な文体や言い回しを指す)から、あらゆる起源や自己同一性が失われ、「作者」は自分自身の死を迎える。

 引用の織物としてのテクスト

そして、多元的な無数のエクリチュールが結びついて構成されたものが「テクスト」と呼ばれる。バルトは、「テクスト」とは「無数にある文化の中心からやって来た引用の織物」(pp.85-86)であると述べている。エクリチュールは互いに対話を行い、異議を唱え合い、いずれもが起源となることがないまま多元性の空間を形成する。そして、この多様性が収斂する場が「読者」である。

先ほど確認したように、批評家は「作品」を解読することで、唯一の解、すなわち「作品」に先立って存在する「作者」の意図やメッセージを見つけ出そうとする。だが「作者」が葬り去された現代の書き手である「読者」は、「テクスト」先立って存在するのではなく、読む行為を通じて「テクスト」と同時に誕生する。あらゆるテクストは常に「今ここ」で書かれるのである。

テクスト」という多元的なエクリチュールにおいて、「解読」すべきものは何もない。むしろ「すべてを解きほぐすべき」(p.87)だとバルトは言う。「テクスト」は複数の——だが有限の——意味を備えていると考えるのではなく、無限に、かつ爆発的に意味を産出することによって、むしろ「意味を蒸発」(p.87)させることが必要なのだ。バルトはテクストの複数性と戯れるような読書を称揚し、そこに西洋の一神教的・一元論的思想からは「悪」として断罪されるようなエロス性、快楽性を見出した(『テクストの快楽』沢崎浩平 訳、みすず書房、1977年、原著1973年)。このような読書は必ず一回性の行為となり、同じ読書を反復・体験することは決してないだろう。 


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