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地方映画史研究のための方法論(40)メディア論と映画①マーシャル・マクルーハンのメディア論

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」、「見る場所を見る3+——親子で楽しむ映画の歴史」を開催した。

2024年3月には、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)を刊行した。同書では、 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。(今井出版ウェブストアamazon.co.jp

地方映画史研究のための方法論

地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、杵島和泉さんと共同で行っている研究会・読書会で作成したレジュメを加筆修正し、このnoteに掲載している。過去の記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論

大衆文化としての映画
(27)T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論
(28)ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
(29)F・ジェイムソン「大衆文化における物象化とユートピア」
(30)権田保之助『民衆娯楽問題』
(31)鶴見俊輔による限界芸術/大衆芸術としての映画論
(32)佐藤忠男の任侠映画・剣戟映画論

パラテクスト分析
(33)ロラン・バルト「作品からテクストへ」
(34)ジェラール・ジュネット『スイユ——テクストから書物へ』
(35)ジョナサン・グレイのオフ・スクリーン・スタディーズ
(36)ポール・グレインジによるエフェメラル・メディア論
(37)アメリー・ヘイスティのデトリタス論

雑誌メディア研究
(38)キャロリン・キッチ『雑誌のカバーガール』
(39)佐藤卓己のメディア論的雑誌研究

メディア論と映画
(40)マーシャル・マクルーハンのメディア論

マーシャル・マクルーハン(1911-1980)

マーシャル・マクルーハン

マーシャル・マクルーハンHerbert Marshall McLuhan、1911-1980)は、カナダ出身の英文学者・文明批評家。1911年にアルバータ州エドモントンに生まれ、マニトバ大学とケンブリッジ大学で学んだ後、1946年にトロント大学セントマイケルズ・カレッジ助手に着任。英文学を教えながら文芸批評に携わり、1952年に教授となる。

1951年に初単著『機械の花嫁——産業社会のフォークロアThe Mechanical Bride: Folklore of Industrial Man』(井坂学 訳、竹内書店新社、1991年)を刊行。メディア論と現代文化論の問題に取り組む。続く『グーテンベルクの銀河系——活字人間の形成 The Gutenberg Galaxy: the Making of Typographic Man』(森常治 訳、みすず書房、1986年、原著1962年)と『メディア論——人間の拡張の諸相 Understanding Media: the Extensions of Man』(栗原裕・河本仲聖 訳、みすず書房、1987年、原著1964年)がそれぞれ大きな話題を呼び、メディア論の第一人者として知られるようになる。

その後も『メディアはマッサージである——影響の目録 The Medium is the Massage: An Inventory of Effects』(クエンティン・フィオーレとの共著、門林岳史 訳、河出文庫、2015年、原著1967年)や『地球村の戦争と平和 War and peace in the global village』(クエンティン・フィオーレとの共著、広瀬英彦、番町書房、1972年、原著1972年)などの著作を発表し、メディアを理解するための重要なキーワードを多数提唱した。1979年に脳卒中の発作に倒れ、右翌年1980年にトロントで死去。69歳だった。

メディアはメッセージである

人間身体の拡張——『メディア論』(1964)

マクルーハンは『メディア論——人間の拡張の諸相 Understanding Media: the Extensions of Man』(栗原裕・河本仲聖 訳、みすず書房、1987年、原著1964年)、において、「メディアはメッセージである The Medium is the message」(p.7)と主張する。

この言葉の意味を理解するためには、さしあたり、マクルーハンが「メディア Media」という概念を、人間の身体的な能力や感覚的な能力を拡張する技術(Technology)として捉えている点を押さえておく必要があるだろう(こうした定義の下、『メディア論』では衣服や住宅、貨幣、自動車や兵器などもメディアとして扱われている)。例えば車輪は足の延長であり、書物は眼の拡張であり、衣服は皮膚の拡張であり、ラジオは耳の延長であり、電気回路は中枢神経系の拡張である。新しい技術(メディア)が私たちの世界に導入されると、移動や聴取といった既存のプロセスはその規模を拡大させたり、加速させたりして、新しいスケール(尺度)を生み出す。そしてそれが、個人の行動や心理、社会や文化のありように具体的な影響を与えるのである。

Marshall McLuhan, "The Medium is The Massage", Gingko Press Inc, 2001. pp.30-33

メディアはメッセージである

このようにマクルーハンは、メディアの「内容 Content」——例えばラジオドラマで語られる物語やニュース番組が伝えるメッセージ——よりも、メディアの「形式 Form」が生み出す新たなスケールや、それがもたらす心理的・社会的影響こそが重要なメッセージだと主張し、そこにメディアの本質を読み取ろうとする。こうしたアプローチを端的に示したのが、「メディアはメッセージである The Medium is the message」という言葉なのだ。

ところが多くの人びとは、メディアの「内容」にばかり気を取られて、メディアの「形式」そのものがメッセージであるということに思い至らない。例えば電気の光(Electric light)は、それ自体が純粋な情報(Information)もしくは「内容」のないメディアであり、その本質は——例えば照明によって夜間の行動を可能にしたり、遠方に向けてシグナルを送るなど——人間同士の結びつきや行動において、時間と空間という要因を取り去る点にあるとマクルーハンは言う。だが電気の光がコミュニケーションのメディアとして注目されるのは、あくまで具体的な宣伝文句や名前を描き出すために使われる時だけだ。しかもそこで論じられる「内容」は、電気の光というメディアの本質とは無関係である。というのも、あらゆるメディアの「内容」は、常にそれとは別のメディアであるからだ。例えば書き言葉の内容は話し言葉であり、印刷された言葉の内容は書き言葉であり、電信の内容は印刷された言葉である。

このように、新しいメディアの「内容」は、常に古いメディアが担っているとも言える。マクルーハンはこのことを、別の著作では自動車のバックミラーにたとえて説明している。曰く、「まったく新しい状況に直面すると、われわれはいつも、一番近い過去の事物や様式にしがみつくものである」「われわれはバックミラーごしに現在を見ている。われわれは未来にむかって後ろ向きに行進している」(『メディアはマッサージである——影響の目録』門林岳史 訳、河出文庫、2015年、pp.76-77)。

Marshall McLuhan, "The Medium is The Massage", Gingko Press Inc, 2001. pp.74-75

メディアはマッサージである

マクルーハンは1967年に刊行したクエンティン・フィオーレとの共著『メディアはマッサージである——影響の目録 The Medium is the Massage: An Inventory of Effects』(門林岳史 訳、河出文庫、2015年)において、「メディアはマッサージである The Medium is the Massage」とも述べている。

同書の邦訳者である門林岳史は、ゲラ段階の誤植で「message」が「massage」となってしまっていたのをマクルーハンが気に入ってタイトルに採用したとの逸話を紹介しつつ、「「メディアはマッサージである」という言葉には、メディアが人間の身体を直接もみほぐして、内側から作り替えてしまう、というようなイメージがあります」と語っている(『メディアはマッサージである』p.165)。マクルーハンは、メディアが人間の身体に働きかけ、その思考や行動、感覚的な能力を拡張するのだという主張を直感的に理解可能なものにするためのメタファーとして、マッサージという語を用いたのだろう。

メディアは、環境に変更を加えることで、そのメディアに固有な感覚知覚の比率をわれわれ人間のうちに生み出す。どのひとつの感覚が拡張されても、われわれの思考と行動の仕方——世界を知覚する仕方——は変更される。1965年の大停電がかりに半年続いていたとすると、電気技術がいかにしてわれわれの生活のあらゆる瞬間をかたちづくり、その徹底的な作用によって変更を加えているか——つまり、マッサージしているか——疑いようがなくなっただろう。

『メディアはマッサージである』p.150
Marshall McLuhan, "The Medium is The Massage", Gingko Press Inc, 2001. pp.74-75

機械の時代における外爆発——人間身体の空間的な拡張

マクルーハンによれば、西欧世界はその3000年に亘る歴史の中で、技術(メディア)の発展による「外爆発 explosion」を起こし続けてきた(p.3)。外爆発とは、人間の身体の空間的な拡張を意味する。すなわち、様々な技術(文字や印刷技術、航海技術や科学・産業技術など)の発達に伴って、人間個人の限界を超えた範囲と速度で情報伝達が行われ、感覚や経験、知識や思考様式、文化までもが、遠く離れた人びとの間で共有されるようになっていく。その規模の急速な拡大を表すために、外爆発という比喩が用いられているのである。

マクルーハンは外爆発の最終局面を「機械の時代 The mechanical age」として説明している。「機械の時代」とは、18世紀後半から19世紀末の産業革命の時代を指す。蒸気機関や鉄道といった機械技術の発展は、物理的な距離を縮小し、大規模な生産と輸送を可能にした。また印刷技術の発展は、活字メディアによって情報を視覚的に整理し、標準化された形式へと変換することで、より広範囲への、より迅速かつ効率的な情報伝達を実現させた。

さらにこうした文字文化・視覚文化における「読み書きLiteracy」の技術は、情報を分割・整理して分析的に捉える思考を生み出し、西欧世界の人びとに「反応と切り離されたところで行為を為す力」(p.4)を与えた。外科医が人体に狼狽えず冷静に手術を行うように、取り扱おうとする物事に感情的に巻き込まれず、合理的に腑分けして扱う思考が極限まで拡大したのが「機械の時代」の特徴であった。マクルーハンはこうした断片的な思考が、人間の感覚や経験の全体性を損なわせてきたと批判的に論じている。

電気の時代における内爆発——人間身体の内側への拡張と「地球村」の形成

ところが「機械の時代」の後に訪れた「電気の時代 The electric age」には劇的な逆転が起こり、今度は「内爆発 Implosion」による世界の圧縮という事態が生じる。ラジオやテレビ、電話など、電気を用いた技術の普及は、人びとに地理的な距離を超えて瞬時に同じ情報を共有したり、直接的にコミュニケーションを行う手段をもたらした。電気のスピードがあらゆる社会的・政治的働きを一瞬にして結合させることで、地球は限りなく縮小していく

別の表現をすれば、それは人間の身体拡張の最終局面である。人間の意識の技術的なシミュレーションによって、個々人の感覚や意識も集合的・集団的なものへと拡張され、地球規模に広がっていく。その結果、私たちは民族や社会階層、世代など立場が異なる人びとの生に巻き込まれると同時に、私たちの生に彼/彼女らを巻き込み、互いに無関係では居られなくなった。「電気の時代」は、人びとの関係性が密接になることで、各自の責任意識が極度に高まる時代でもあるのだ。

以上のように、電気の時代における地球の縮小、もしくは人間身体の内部への拡張によって、世界は一体化し、地球全体があたかも一つの村のようなものになる。これをマクルーハンは「地球村 Global Village」と呼ぶ。そこではあらゆる人びとが相互依存関係を築き、原始時代以来の部族的社会が再び形成されることになるだろう。

熱いメディアと冷たいメディア

熱いメディア(Hot medium)

各種メディアを区別するための基本原理として、マクルーハンは「熱いメディア Hot medium」と「冷たいメディア Cool medium」という概念を導入する。特定のメディアがどちらのメディアに属するかは、精細度、すなわち情報量とその密度に応じて判断される。2種類のメディアはそれぞれ異なる特性を持ち、異なる効果を受け手に与える。

熱いメディアは、単一の感覚を「高精細度 High definition」で拡張するメディアのことであり、例えば映画や写真、ラジオがこれに該当する。熱いメディアは与えられる情報が多いため、受け手によって補充・補完される必要性が薄い。従って、自ずと受け手の参与性も低くなる

熱いメディアは大量の情報を一挙に拡散することで外爆発を促進する。だが受け手にとっては、それだけの情報量を一挙に受け取り、理解するための労力や負荷も、同時に増大することになるだろう。そのため人びとは、特定の分野に特化した情報だけを得ようとしたり、与えられた情報をただ受動的に受け取るだけになり、結果として専門化と細分化が進行する。熱いメディアによって、「機械の時代」を特徴づける断片的な思考が拡大するのである。

冷たいメディア(Cool medium)

他方、冷たいメディアは「低精細度 Low definition」を特徴とするメディアであり、テレビや電話など「電気の時代」を代表する技術の多くがこちらに分類される(ただしラジオは例外的に熱いメディアに分類される)。冷たいメディアは与えられる情報量が乏しいため、受け手が補完しなければならないところが多く、それゆえ参与性も高まる

情報の積極的な読解や双方向的な関係性の構築により、冷たいメディアは専門化・細分化されない全体的な生の体験をもたらすのだとマクルーハンは言う。彼は熱いメディアよりも冷たいメディアを肯定的に捉えており、様々な対象を取り上げてそれがどちらのメディアに分類されるべきかを検討し、価値判断を下している。ただし、一度行った分類は不動というわけではない。技術の変化や時代の変化に応じて、熱いメディアであったものが冷たいメディアへと移行したり、その反対の移行が生じたりもする。

後進諸国は冷たく、われわれは熱い。都会人は熱く、田舎人は冷たい。けれども、電気の時代に手順と価値の逆転が生じたために、過去の機械の時代が熱く、テレビの時代のわれわれが冷たくなった。ワルツは熱く、速い舞踊であって、その華美な環境の雰囲気が工業の時代にふさわしかった。それと対照的に、ツウィストは即興の身ぶりの冷たい、全身を使う賑やかなものである。ジャズも、映画とかラジオとかの熱い新しいメディアの時代のものは熱いジャズであった。けれども、本来、ジャズはくつろいだ対話といった形式の舞踊になる傾向があり、ワルツのもつ反復的で機械的な形式を完全に欠いている。ラジオや映画の最初の衝撃がおさまったあと、ごく自然に冷たいジャズが登場したのであった。

『メディア論』p.28

活字メディア——『グーテンベルクの銀河系』(1962)

1962年に刊行されたマクルーハンの前著『グーテンベルクの銀河系——活字人間の形成 The Gutenberg Galaxy: the Making of Typographic Man』(森常治 訳、みすず書房、1986年)も、熱いメディア冷たいメディアの概念を用いて説明することが可能である。

同書では、ヨハネス・グーテンベルクが発明した活版印刷技術によって生み出された活字メディアが、その後の人間の思考や社会に与えた影響について論じられている。マクルーハンによれば、古代ギリシャ・ローマにおいて読書という行為は聴覚的な「音読」を意味していた。だが活字メディアの出現によって、視覚的な「黙読」という新しい読み方が可能になったのだという。

加えてアルファベットの発明も、活字メディアを成立させる上で重要な要素である。アルファベットは、情報を音声ではなく視覚的・抽象的な記号へと変換し、それを線条的・論理的な順序で並べることを可能にした。それは西洋における近代科学や個人主義・合理主義といった価値観の確立に、多大な貢献を果たした出来事であった。

印刷技術とアルファベットの結びつきによって生まれた活字メディアは、視覚という特定の感覚を強く刺激し、また大量の情報を一方的に伝達する熱いメディアとしての特性を備えている。それは手書き文字の文化や口承文化で重視されていた生の全体性を希薄にし、人びとが情報を受動的に受け取る姿勢を強化・促進してきたのだ。

グーテンベルク聖書(四十二行聖書)の冒頭
ヒエロニムスの書簡、15世紀

映画——活字メディアとの結びつき

「映画 Movie」は「機械の時代」を代表するメディアであり、マクルーハンはこれを熱いメディアに分類している。映画は膨大な情報をフィルムに記録し、一瞬のうちに呈示して、人間の視覚に強く働きかける高精細度なメディアであり、製作される作品も、カメラの正確かつ非情な目に耐え得るよう、時代考証を徹底した衣装や作り込まれたセットが用いられ、ますます情報量は増加する。特にハリウッド映画は、アメリカのライフスタイルや文化を世界中に輸出し、外爆発的にその影響を拡大させた。

また映画は、フィルムで作られた幻想や夢の世界へ観客を移行させる点で、同じく印刷技術によって作られた幻想の世界に読者を移行させる活字メディアと深い結びつきを持っている。映画は情報を線条的に並べ、順に呈示することで意味や物語を伝えるが、観客がそれを自然に受け入れることができるのは、彼・彼女らがすでに同様の性質を持つ活字メディアに慣れ親しんできたからだ。それゆえ、非文字分化の未開人は複数カットで構成された映画のシーンを連続した一つの空間として認識できないだろうとマクルーハンは言う。さらには、一つの視点から事物の位置関係を把握する遠近法的な空間感覚も、文字文化の中で培われたものだとの主張が為されるのだ。

マクルーハンは、労働や活動の専門化・細分化を極限まで推し進めたメディアとして映画を捉えると共に、そのような状況を自己言及的に風刺した作品としてチャールズ・チャップリンの『モダン・タイムズ』(1936)を挙げている。同作でチャップリンが演じる道化は、専門化・細分化した職務に全的・統合的な人間精神を以て取り組むことによって、逆説的に、人びとの生が断片化された状態に置かれていることを自覚させるのだ。

チャールズ・チャップリン『モダン・タイムズ』(1936)

テレビ——聴覚的・触覚的メディア

対して「テレビTelevision」は「電気の時代」を代表するメディアであり、冷たいメディアに分類されている。初期のテレビが映し出すのは、モザイク状の網の目で形成された低解像度の映像であり、視覚的に得られる情報量が少ない。そのため、視聴者は不足している情報を補完し、テレビへの積極的・創造的な参与を促される。

映画や活字メディアと比較して、テレビの内容に苦言を呈したり、堕落したメディアだと糾弾する声もあるが、そうした批判者たちは、テレビが従来のメディアとは異なる感覚的反応を要求するメディアであることを捉え損なっているとマクルーハンは指摘する。曰く、映画が視覚的なメディアであるのに対して、テレビは聴覚的・触覚的なメディアであり、人間身体の中枢神経組織を拡張する。テレビは視覚という単一の感覚によって情報を分割・整理して分析しようとする断片的思考ではなく、複数の感覚が連携した「共感覚 synesthesia」的な力によって情報を捉えようとする、統合的・全体的な思考を促進するのである。

Marshall McLuhan, "The Medium is The Massage", Gingko Press Inc, 2001. p.120

また、映画鑑賞が個人的かつ受動的な体験であるのに対して、テレビ視聴は集団的かつ積極的な体験であるとも指摘されている。マクルーハンによれば、テレビの集団的・参加的な性格を視聴者にもっとも強烈に印象づけたのは、ケネディ元大統領の葬儀に関する報道である。「この事件は、テレビが視聴者を複合した過程に関与させる比類のない力をもつことをあらわにした。共同体的な過程としての葬儀は、スポーツさえも蒼ざめた矮小なメディアに変えてしまった。要するに、ケネディの葬儀は、全国民を祭式の過程に関与させるテレビの力を顕示したのである。」(p.352)

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