公衆衛生の倫理と政治哲学のフレームワーク:要約
動機
MPH課程の授業の中で、欧米的な特徴なのかもしれませんが、"Justice"という言葉がでてきました。
講義としては「Public Healthの価値観と倫理」とか「健康の社会決定要因」というような授業の中です。
さらっと進んでいき、周りを見回してもみんな納得しているようだったのですが、「Justiceって語感も強いし、そんなみんなが共有する正義ってなに?」という疑問がぬぐい切れませんでした。
また、健康の社会決定要因の授業で"Justice"という言葉が出てきたように、どうやら平等主義的な文脈で使われているようで、
以前、僕が別記事で書いた「SDHへの違和感」にもつながっていそうだし、提示された参考文献3つを読んでみました。(メインは2つ+1つおまけ的)
解釈を交えつつ、簡単に要約をしたいと思います。
とりあえず一つ目です。
Frameworks for ethics in public health
Article in Acta bioethica · January 2003
公衆衛生に関係する規範を考える時に、正義論、政治哲学、倫理を考察する必要がある。従来、公衆衛生「内部」の倫理にばかり議論が割かれ、より広範な理論や思想に基づいた議論は乏しかった。
社会および人々の行動の変化に焦点を当てることは公衆衛生の特徴であった。これらの変化によって、社会の広い範囲のひとに健康をもたらしたり、社会的弱者の健康を拡大することで平等をもたらしたりしている。
このような変化を焦点にする以上、疫学や科学だけでは不足である。
倫理/政治哲学のフレーム
公衆衛生に関係する規範には、功利主義Utilitarianism、契約主義Contractarianism(社会契約+人権)、共同体主義Communitarianism(コミュニケーション倫理 communicative ethics)が大きく背景にある。
一般の経済理論や政治理論、リベラル福祉主義Liberal Welfarismは功利主義に基づいている。
社会民主主義Democratic SocialismやリバタリアニズムLibertarian Liberarism、平等主義的リベラリズムEgalitarian Liberarismは、功利主義の影響もあるが、契約主義や人権を重視している。
熟議民主主義Deliberative democracyと市民共和主義Civil Republicanismは、契約主義の影響とともに共同体主義の影響も受けている。
共同体主義には、民主的共同体主義Democratic communitarianismと権威主義的共同体主義Authoritarian communitarianismがあい、より権威的な政治哲学として、文化保守主義Cultural Conservatismがある。
功利主義・契約主義・共同体主義
功利主義の中にも多くの評価基準や形式があるが、公共の道徳を考える際には、主要な思想であり、経済学や政策分析、公衆衛生などの分野に広く用いられている。
契約主義は、功利主義との緊張関係があるが、特にロールズの研究によって、現代でも力のあるものとなっており、功利主義に対する有力な批判を展開している。グローバルではないかもしれないが、少なくとも西洋的な道徳的信条を説得的な形で反映したものとなっている。この理論では、理性と開かれた言論によって道徳的規範を検討するということを重視し、自由で平等で理性的な個人によって道徳が形成される。この価値観を尊重することは、人権といった別の形で表現されることもある。
共同体主義は、契約主義の個人主義的な性質への批判から生まれている。個人が、他社や社会、文化、伝統とのつながりを持たずに形成されることはないことを主張している。また個人が、自分の効用を最大化するための個々のプレイヤーであるとする功利主義的な見方にも批判的である。功利主義でも契約主義でも個人が重視されずぎ、社会の中にある「人間」というものが希薄であることを問題視し、社会の中での人間性と、社会に対する責任とを強調している。共同体主義の中には、どちらかといえば左派的な平等主義的/参加民主主義的方向性と、どちらかといえば右派的な文化的に保守的/権威主義的な方向性とが含まれている。
共同体主義に近いものとしてコミュニケーション倫理があり、ハーバーマスから発展したものである。契約主義と近い側面があり、よりカントからの流れを受けており、「理想的な発言状況」というような理論的前提から熟議民主主義へと議論がつながっていく。
リベラリズムの広範さ
このような分類は、左派共同体主義的な参加型民主主義を重視する姿勢から文化保守的共同体主義のような右派的面まで、リベラリズムの幅広さを示している。これらの2つの共同体主義は、古い左派共産主義でもなく、右派ファシストでもなく、アメリカリベラリズム主流派への新しいチャレンジャーとなっている。
広い意味でのリベラリズムのスペクトラムの中には、社会主義や集団主義に近い性質をもつものもあり、これは功利主義から発展してきたものと推測される。また公衆性性専門家のなかにはこの意見をもつものが潜在的に多いだろう。また平等主義的リベラリズムも、同様に左派的性質を持つ立場である。さらに契約主義、リバタリアニズムもある。
熟議民主主義と共同体主義からの従来リベラリズムへの挑戦
あらゆる種類の広義のリベラリズムは、代議制民主主義、法の支配、言論の自由、政治組織の自由、自由競争選挙などの制度的枠組みを前提とすることが多い。
これらの選挙政治や代議制、利益集団民主主義に満足せず、新しい民主主義理論が生じてきていることも注目に値する。政治の議論でも市民生活でも、市民のより直接的で主体的な役割を求めるのが熟議民主主義である。またこれは左派共同体主義とも共通点が多い。
リベラリズムに匹敵し、西洋政治理論に長い歴史的背景をもつものとして、市民共和主義(サンデル)が挙げられる。これは古代ギリシャやローマから続いている。産業革命期において、ロック的自由主義、リバタリアニズム、功利主義、個人主義によって主流を失ったが、共通善/公共奉仕/美徳を強調し、現在あらためて理論的に注目されている。そして、共同体主義や熟議民主主義を理論的に支持する側面もある。
最後に、文化保守主義がある。幸い国家社会主義やファシズムのような集団主義には至っていない。原理主義、伝統回帰手技、宗教的再生運動を背景に、文化的/性的保守主義とキリスト教宗教原理主義を目標に、経済的/政治的自由主義と結びついたものとなっている。
各思想の相互関係
これらの理論は、相互に影響しあい、差異もある。
契約主義は、平等主義的リベラリズムと熟議民主主義の双方を理論的に保証している。この違いは、民主的な意思形成過程において、仮説的な議論を前提するか、実際の熟議を必要とするか、である。
また、熟議民主主義と市民共和主義は、友情や連帯、文化的伝統、共同体や社会/人間の重要性について、共同体主義から理論的影響をうけている。しかし、政治的意思決定について明確な違いがあり、熟議民主主義では草の根から直接参加することを重視しているが、共和制は直接民主主義を訴えない。むしろ、代議制民主主義や憲法などによって保証されたエリートや専門家による統治を目指している。これは、市民的共和主義が、共有された意思決定への主体的参加(公共的市民性)ではなくて、公共の目標や共通善を達成し、そのための市民の公共道徳と責任感を重視しているためである。
改めて…公衆衛生と倫理の関係
このような規範や倫理の全体像的な議論を前提として、やっと公衆衛生倫理について議論することが可能となる。
例えば、健康増進と疾病予防は公衆衛生の主要な分野であるが、このような活動の中で、健康を増進させる活動を促進するために政府がどのような役割を果たし、個人にどのような責任があるのか、を考えると、個人の自由と自主性を重んじ政府介入を良いものと考えない観点は、健康が社会においてどのように相対的な重要性を持つのかという議論を提起する。
またなにか公衆衛生的なことのリスクを低減するということも価値の問題をはらむpublic healthの大きな分野である。。なにをリスクとみなすか、リスク低減とのトレードオフとなる倫理的課題の重要さの価値判断、どの程度までのリスク低減が必要で許容されるリスクはどの程度か、リスクの社会の中での分布など多くの倫理的議論が関わっている。
Public Healthの実践は、多くの場合、個人や集団の健康リスクを低減させるためのスクリーニングや調査、介入が含まれている。そして、それは(特に集団を対象にした介入の場合)インフォームドコンセントにのっとっていないこともある。
さらに、健康に関わる構造的、社会経済的格差の問題もある。医療への公平なアクセスや健康格差の是正は、Public Healthの重要な分野であるが、そのためにどのような役割を果たすべきだろうか。単に事実調査や社会に対して啓蒙や教育をする役割と、格差是正のための強力な使命を持ったものとして行動する役割(そしてこれは政治的に党派的姿勢を伴いうる)をどのようにバランスしていくべきなのだろうか。
公衆衛生倫理を考える4つのスタイル
最後に、公衆衛生に関わる倫理といったときに、その内容ではなく、どのようなスタイルで倫理を考えるかによっても公衆衛生倫理を分類する。4つに分類され、職業倫理、擁護倫理、応用倫理、批判倫理である。
職業倫理
職業倫理では、医師や行政官、弁護士などのようにある専門職が歴史的に培ってきた価値観を特定していく。専門職の氏名や維持すべき信頼と正当性を守るような倫理原則を構築し、社会や個人に対して持つ力の行使の使い方を規定する。職業倫理の観点では、専門的な実務家がその権力と権威を行使することを社会から許されるために、彼ら自身が持つべき美徳と従うべき規範を表明しようとする。
公衆衛生専門職においては、このアプローチには困難が伴う。現在、公衆衛生の専門職としての立ち位置は、固定されておらずはっきりと位置付けられておらず、公衆衛生専門家となる際に引き受けるべき「特別な役割義務」や「天職や使命」というものは明確ではない。
アドボカシー倫理
公衆衛生の領域で、現在主に言われる倫理は、このアドボカシー倫理である。理論的、学問的な倫理学というよりは、実践的な倫理であり、内容としては、健康格差の改善を求め、弱者救済を求め、そのための社会課題の解決と改革を説明するものとなっている。これは公衆衛生関係者の当然の関心に基づいている。近年では、人権に関わる運動との関連などもある。弱者や権利を守るだけではなく、人々に資源を提供し、個人や集団をエンパワメントし、そのような社会や福祉をデザインする理論的背景となっている。
この倫理の課題は、この社会変革への情熱の裏返しであり、他分野から向けられる批判的視点や公衆衛生が他分野へ影響することへの疑義へ回答するものとはならない点である。公衆衛生分野が専門的に社会へ奉仕することを支持する倫理観を提供するが、公衆衛生分野内で当然視される規範や方向性に対して批判的な視点を提供することは限られている。この限界を超えるためには、アドボカシー倫理や価値観を一度脇に置いて、批判的立場の人々とも熟慮、熟議していく必要がある。
実践倫理
このアプローチでは、専門的分野の内部から発生した倫理というより、倫理の一般原則を原点として、実践分野の行動や意思決定に適用しようとする。同様の分野として、遺伝的分野などを扱う生命倫理がある。専門職やその領域の慣習や知識ベースではなく、抽象的/一般的な理rンりから推論し、倫理理論を導き、それを実践の場に落とし込む形式をとる。
この難しさは、このアプローチでは従来、個人主義的な立場にあることである(従来の生命倫理、医療倫理、医学研究倫理などをイメージ)。つまり、「公共的」なものを扱う専門分野である公衆衛生とは齟齬が存在する。国家、社会、地域コミュニティ、子供、弱者、糖尿病リスクのある人々など様々な集団を扱う以上、理論的に一貫した指針を与えることが難しくなる。
クリティカル(批判的)倫理
筆者はこれが最も重要であるとのべている。
公衆衛生の倫理において、この分野の実践や歴史的な背景に基づいた倫理理論を考えるとともに(職業倫理との関係)、公衆衛生に留まらない他分野や一般の倫理、哲学、政治哲学などより大きな社会的価値や歴史の流れも踏まえて、分野内での実践について批判的に捉えなおす。
倫理一般や他分野からの批判など、政治的/哲学的なリスクを恐れた結果、公衆衛生分野の取組が、制度的な変革を軽視し諦め、教育啓蒙や健康増進活動や生活様式の改善活動など個人や小さな集団ばかりを対象とした矮小な活動となりやすいことを乗り越えるために、必要な倫理的取組である。その意味で、アドボカシー倫理と決して矛盾するものではなく、共通する点もある。批判的倫理学を通じて、公衆衛生の内部に閉じた議論ではなく、本当に公共的な取組となるために、公共や他分野、市民に開かれた議論とすることができる。結果的に、議論を通じて、有意義な参加、市民の問題解決能力を促進でき、公衆衛生的な目的も達成することができる。
まとめ
このような様々な倫理の枠組みを通じて、公衆衛生の倫理を検討していくことが重要である。アメリカでは、個人の倫理ではなく、社会の善や倫理、美徳について語られることに従来抵抗があった。しかし、カナダでは、公衆衛生の実践を、社会や政治的価値観と意識的に関連付けようとしてきた。公衆衛生を有効に実践していくためには、それが実施される社会や国家、地域社会にある価値観と無関係でることはできず、このような検討を行っていく必要がある。
感想
※これはかなり総説的な論文で、公衆衛生に限らず、倫理と政治哲学の広いフレームからとらえようとするもの。議論の前提になる。
※自分自身の公共を考えるときの視点が、熟議民主主義と共同体主義のグラデーションにあることを認識できた。(必然的に、人々の意思決定やコミュニケーションのあり方、共通善に興味が向き、日本での実践が目的なので、最近はそのベースとなる日本人論や民俗学、死生学に興味が出てきている)
※それが、平等主義的リベラリズムが前提となりやすい「健康の社会決定要因」や公衆衛生の議論に対する違和感になっている。
※個人の感覚として、平等主義的リベラリズムは共感する部分もあるが、公共を考える枠組みとしては、限界があるように思う。手段として、功利主義や平等主義的リベラリズムの立場はまだあると思う。
※この論文では重視されていないけれど、「公衆衛生専門家」としての「専門職倫理」というものがあるとしたらどのようなものになるだろうか。
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