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二層から成る「悪」の探索空間--「エルサレム」書評

書評講座に参加しました。講師は書評家の豊崎由美さん。3冊の課題図書のうち1つを選択して1600字以内で書くというお題で、私はポルトガル文学「エルサレム」(ゴンサロ・M・タヴァレス著 木下 眞穂訳 河出書房新社)で書きました。以下は講評後手直しを入れたものです。下に手直し前の文と、講評でいただいたコメントも記しておきます。

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 「エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい」タイトルの由来はこの旧約聖書の詩篇の一節から。作中では、「エルサレム」の部分に登場人物がかつて時を過ごし、大きな喪失を経験した場の名に置き換えて想起される。決して忘れられない、また忘れてはならないものとして。

 物語は、ある日の未明に起こる出来事を基軸として、複数の登場人物の視点が時間と場所を行きつ戻りつしながら提示される形式で進む。彼らは互いの繋がりに必ずしも気付かぬまま、やがて驚くべきクライマックスに到達する。
 エルンストが窓から身を投げようとしたその時、電話が鳴る。彼が受話器を取ったところで場面はミリアに切り替わる。
 ミリアは腹部の痛みで眠れない。彼女は死病に侵されている。どうやら過去に受けた手術が影響しているようだ。医者にも匙を投げられている。彼女は教会を目指して家を出るが、教会はまだ閉まっていて入れない。
 一方、ミリアの元夫で精神科医のテオドールは売春宿を目指して歩いている。彼は道で見かけた街娼ハンナに惹かれ声をかける。ハンナは生活の面倒を見ているヒンネルクの様子を見に訪れるが、彼は不在だった。そのころヒンネルクは昏い思いを抱えて街を彷徨っている。彼は戦争のトラウマを負った帰還兵である。目の下に大きな隈があり「殺し屋の顔」と形容される人相を持った彼は、近隣の子供達に恐れられつつ蔑まれている。
 同じ頃、十二歳になったばかりの障害のある少年カースは、夜中だというのに父テオドールが家にいないのに気づき、一人で街に探しに出る。

 この一日の出来事とそこに連なる過去のエピソードが主旋律を奏でる背後で、本作全体を通じて重く鳴り響く副旋律が、テオドールの「恐怖史」の研究だ。彼の関心は、強制収容所のような「圧倒的強者から、何の脅威もない弱者への一方的な暴力、抑圧(恐怖)」の理解にあり、時間軸上で世界の恐怖の総量の推移をグラフ化しようと試みている。医師として「正気を失った人間」を診てきた経験からテオドールは、「正気を失った人間の思考法を正常とみなすことで、行動様式を予測しコントロールすることができるようになる」という自論を持つ。そしてこのやり方を個々の人間から人類全体に適用すれば「歴史そのものの精神衛生状態」を理解することができると考えている。彼は自分の研究の完成を心待ちにする一方で恐れてもいる。「数百万の人間を、子どもも老人も男も女も根絶やしにしようとした収容所の基盤となる思想を理解し−しかもそれを正常だとみなし−そのあと彼自身はどうなってしまうのだろう?」
 彼と彼の研究がどうなったかは、ぜひ読者自身で確認していただきたい。

 訳者あとがきによれば、著者ゴンサロ・タヴァレスは一九七〇年生まれのポルトガルの作家。「エルサレム」は彼の最初の長編群である「王国」四部作の第三作にあたり、他に「町」「都市」「神話」などといったテーマの作品群がある。作家デビューする前の二〇代から三〇代にかけて大量のノートを書き溜めており、それらを長い間寝かせた上で推考して作品として随時発表しているという。本書に流れる「重い」テーマについても、長年思考してきたに違いない。「悪」とは何か?どのような経緯で「悪」の行為が行われることになるのか?そうした行為を行う人間の精神状態は「異常」か?異常とは何か、正常とは何か?---こうした問いについていやというほど思考実験を繰り返し、その探索空間を言葉で再構築したものが、王国や町として立ち現れるのだろう。


 主旋律のストーリーは見事に回収されており、本書だけでも独立した小説として十分読み応えがあるが、副旋律の調べは読後も長く鳴り止まない。同テーマの他の作品では、著者はどのような探索空間を作り上げたのか。本書を内包する世界を、さらに知りたくなる一冊である。

(1591字)

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講評前の版のラストはこうでした。

主旋律のストーリーは見事に回収されているので、本書だけでも独立した小説として十分読み応えがあるが、読み終えた時読者は、一つの迷路を抜けたと思ったらもっと広大な迷路の入り口に立っている自分に気づくだろう。このストーリーを内包する世界をもっと深く知りたくなる一冊である。

これに対し、以下のコメントをいただきました。

「迷路」という比喩を使っているが、迷路とは何を意味しているのか、説明が欲しい。この作品を迷路に喩えるなら、なぜそう思っているのか。また他の作品が「より広大な迷路」だとどうして言えるのか?

ご指摘の通りです...「エルサレム」は時空を行きつ戻りつしながら少しずつ謎が解けていく話なので、「迷路」感があったのですが、そこの説明が足りなかったし、他の作品についてはまだ読んでいないので、同じように迷路感を感じさせる作品なのかどうか分からないのに、「この作者だったら他でも入り組んだ探索空間を作って読者をあちらこちらで立ち止まって考えさせるに違いない」との推測のもとに書きました。「比喩は、それを使うことによってより明快に物事が伝わる場合にのみ使うべし」という金言を胸にしっかり刻み込み、今後に生かしたいと思います。

あと、これは直接には指摘はされなかったのですが、「...の一冊である。」という終わり方はありがちでいまいちだったな、と思っています。金言その2、「頭と尻を大切に」。導入でぐっとひきつけ、最後にかっこいいキラーフレーズで締められたら最高ですね。

書評講座の直前に、「ヨーロッバ文芸フェスティバル」というイベントが開催され、「エルサレム」について著者のタヴァレス氏が語るのを伺えるという素晴らしい機会がありました。訳者の木下眞穂さんが司会をされ、対談者の阿部大樹さんは精神科医であり翻訳家でもあるという、まさに適役で、作者の意図の深いところを聞き出して下さいました。ぜひこちらもご覧下さい。

本書評講座の様子は発起人の翻訳家・新田亨子さんのブログで見られます。



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