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世阿弥の『風姿花伝』
世阿弥の顔、姿を思い浮かべる。匂い立つような美少年を遠くから見た将軍・足利義満は、馬上からうっとりとして目を輝かせていた。その後、義満は世阿弥一行を桟敷に呼ぶよう手配した。
世阿弥は父・観阿弥からお能の奥義を秘伝されていた。少年の吸収力は、秘伝故に身体に染み込ませるものであった。世阿弥が一たび河原で踊ろうものなら、歩く人々は足を止めうっとりしたと言われている。
猿楽と言われた民間芸能を何としても後世に残したいと苦心したのは観阿弥であった。後世に残すために観阿弥は、お能の理念、精神を口伝で世阿弥に伝えた。録音機も撮影機もない時代である。だからこそ、一言一句漏らすまいという命がけの吸い取りがあった。少年世阿弥の吸収力は聡明という言葉を超えるほどの耳と心をもっていたのである。
その美しく聡明な世阿弥のパトロンになろうと手を挙げたのが将軍・義満であった。義満は女性への性愛も好き者だったが、それ以上に男色に惹かれた。
細谷直樹先生は、「風姿花伝講義」の中で、「世阿弥の花は時分の花以上に時めかせるような花が滲んでいた。それに魅了された義満は、少年のような少女のような半ばどちらの色気をも醸している世阿弥を我が物にしたいと思ったに違いない。(趣意)」と述べられた。
時の将軍は、今で言えば男色好みの性加害者であったのだ。
それを観阿弥は知っていたが、そのことを封印していた。お能を猿楽から公が認知する国家級芸能にするためであった。
親は子を利用して地位をつかもうと必死であったことが窺える。
いや、これは特別なことではない。親が自らの体面を飾るために、「あなたの為よ」と言って、お為ごかしをすることは少なくない。
世阿弥は耐えた。お能を広めるために、そして父の執念を実現するために稽古に稽古を重ねた。父と子の二人三脚の稽古は、日々行われ、怠ることはなかった。
父・観阿弥亡きあと、世阿弥は秘伝の奥義を後世に残したいと思った。お能を河原乞食の舞から、国家が認める芸術にするために世阿弥は執筆する。それが『風姿花伝』である。
世阿弥の凄いところは、若い時の花に溺れなかったことだ。中年期クライシスを迎えてもなお、稽古に稽古を重ね、中年期の花を咲かせている。晩年になって隠居することが当たり前の時代にもかかわらず、年齢に応じた花を見つける工夫をした。
生涯青春という言葉があるが、世阿弥その人こそ、青春人であった。別言すれば、生涯驕らずに花を追究した芸術家であった、と言えよう。
芸能人はいくらでもいる。が、芸能を芸術まで高める人は極めて稀である。
私が、世阿弥を尊敬する所以である。
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