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シメ婆ちゃんの思い出

シメ婆ちゃんの皺々の手を思い出す。父は、そのシメ婆ちゃんのことを「お母さん」とは呼ばず、「シメさん」と呼ぶか、ただ単に「婆ちゃん」と呼んでいた。父の親父は、若い頃、満州に橋口家の綺麗な娘と駆け落ちをした。駆け落ちして満州で産まれたのが、父と父の兄の順一だった。父が3歳の時、父の母は満州で流行っていた赤痢にかかって亡くなった。満州の衛生事情は悪く、悪い上に診療体制も脆弱であった。

父の親父、つまりは私の祖父は、妻を荼毘に付したあと、満州から引き揚げる決心をした。玄界灘の波に揺られてやっとのことで佐世保港にたどり着く。それから祖父は独りで二人の幼子を育てなければならなかった。炊事洗濯に難儀していた。それを見た親類縁者は再婚を勧め、シメさんと見合いをさせた。シメさんは父の継母であった。

その継母が花見になると、父から呼ばれて公園坂を登るのを楽しみにしていた。

ある雨の日であった。私は小学二年生だった。その日は、午後から小雨が降っていた。母の頼みであろうか、シメ婆ちゃんは早岐小学校の西門の内側の楠木の前でコウモリ傘をもって立っていた。皺々の顔をくちゃくちゃにして手を振った。皺々の顔は更に皺々になり目は細くなった。

「婆ちゃん。」

手を繋いで帰ったことは覚えている。が、何を話したが思い出せない。

家まで2キロのの泥道をシメ婆ちゃんと歩く。自宅に着くと、シメ婆ちゃんは「ドッコラショ」と言って内玄関の上がり框に座って息を継いだ。

シメ婆ちゃんの肩を揉むことがあった。シメ婆ちゃんの肩は骨と薄い皮のようで、揉むのに手加減をしなくてはならなかった。

肉や魚を充分に食べていないように思った。そう思うと、なんだか悲しかった。

シメ婆ちゃんの墓は、長崎空港から車で1時間ほどの小高い蜜柑畑の中の村墓地にある。拙宅の蜜柑の花が香る頃、シメ婆ちゃんを思い出す。





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フンボルト
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