剔抉遊山 5
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近年は物騒な事件や災害が多い。正直、乱世だと思う。
たとえば今年は、なにがしウイルスとかふざけたものが猖獗を極め世の中は剣呑な雰囲気。とてもナーバスである。
国家もオヨヨヨと気が動転しているから
「お家からやたらに出ちゃあダメごんす」とか「あんまり喋ったらあかんのら」とかそういうのが憲法第一条に追加規定される可能性が大、と我は聞いたが、これは恐らく本当だろうと思う。
とにかく、そのような巷説が人口に膾炙することは、ままあって。なにがしかの騒動が多くの人間の不安や憤りといったエネルギーをもっぱらにする、ほしいままにするなど奇怪な現状はこれここにありんす、である。
また、こういう非常の事態になると人間の心根が鮮やかに滲出したり、エーリッヒフロムが主張したような、権威への従属意識が暴れたり、まるで戦時中みたいに「非国民」を探しまくるヤバい奴が出現したり、国家も国家で、惨時便乗型資本主義、いわゆるショックドクトリンを利用しようとしたりと、なんかダルい感じになってしまい、国民はストレスから白目をむいてあぎゃぎゃぎゃと喚き往来を走り回って釘バットで殺し合いをする。みたいな感じになる。
ちなみにこれは、なんか頭良さそうなことを言ってみたい、と思ってクソ適当に言ってみたのだが、あまりいけてる感じがしない。
とまれ、本日の天候は、微妙。
だらしない雲雲雲を突き抜けた昼の陽が、幾筋かの薄っぺらな光線となって地上へ伸びておますものの、ここ最近の夏陽に慣れた私にとってそれは頼りなく虚弱であった。とはいえ出歩くには丁度良い塩梅で、しとどの汗に身体が濡れそぼつ不快さがない。
だからいま割といい具合の心持ちで根城近辺のクソストリートを歩いている。剔抉遊山、本日は神社にいく。
遊山をはじめて、私は生活の用事で出歩くときも、往来の景色や風物をよく望見するようになった。アパートから駅まで、あるいは本屋やスーパーまでの道。ごく短な距離時間であっても、我は眼前の無風情なる実情から目を逸らさなかった。
家、プランター、爺、婆ァ、電柱、関西弁、車、自転車、看板、駐車場、生き物の鳴声。矮小なひとつひとつがこの町の全部であり、すがれた屋根屋根に下支えされた、時と場合によってなんとでも表現できる空、喜怒哀楽のいずれにも易く符号する紺碧の空が、常なる生活の一部であると知れた。
ちなみにこれは文学っぽい文章表現をして格好をつけたい、よいセンスと感性があると感心されたい、と思って頑張って書いてみたが、なんか、いけてる感じがしない。悲しい。
そんな感じで、外に出るたび、私はいつも心に愉悦をおぼえた。なぜなら、目に入る凡てがやはりクソだったから。ダハハハざまぁみろ清又やはりこの町に好いところなぞ無いのだ、あらへんのだ!と確信をもって満足した。
で、今日は御堂筋の方まで歩き、如何様にふざけた景観をしているのか確かめてやろうとアパートから一方通行の道を進み出したときに、ふと「いや今日は神社とかどうやろうか」と思ったのである。
アパートから徒歩5分もかからぬ場所に神社があって、実は我、かれこれ8年近く住んでいて一度も行ったことがないし、今までの剔抉遊山はただ往来を漫歩するだけで、特定の場所に赴いたことがない。というわけでよし、神社にいく。
クソストリートの道中、数年前に一度、夜にポケモンGOで火炎馬を捕縛する目的で神社行ったことがあるな、と気づいたが「一度も行ったことない神社にいく」という方がなんか色々と都合がいい気がするので記憶を素早く抹消した。そんなことをしているとすぐに着いた。空の奥の方が少し晴れかけてきた。
石の鳥居を越え、両脇に民家と木々が立ち並ぶ表参道を進むと果たして境内の入り口。入ってから、手を叩いたりお辞儀をするのを忘れていることに気がついた。これではあかん闖入者ではないか。さらに、境内入ってすぐ左手に手水舎があったのだが、そこで手を清めるのも忘れて真っ直ぐ階段を登り進んでしまった。なんたる無礼な奴なんだろう。しかも、階段を登りきり、開けた場所にでた気持ち良さから、山側に建つ、立派な構えをした拝殿と本殿をがっつりスルー。腰に手をあて町を眺めつつ「やぁ」とか人心地ついてそのまま階段を降りてしまった。神さんをフル無視するな。
階段を下りて、手水舎と御神木に挟まれた敷石の細道を奥へ行くと、小ぶりな社がいくつか疎らにぽつねんと建っている。その近くに、何やら切り立った山の斜面の、苔むす岩肌の奥から湧水がちょろちょろと垂れていた。端書によると一応これは滝ということらしい。水路はめちゃくちゃに干からびている。梢を掠めて風が吹き、私のぐるりを、一応のマイナスイオンがまとわりついて、私はお茶が飲みたい。
そのまま道を奥へ進むと、神仏習合の名残りだろうか、どうも仏教ぽい感じのエリアがあって、そこで行き止まりになっていた。左を向けば、発色の薄い町が見える。視線を戻すと、神社と山。鳥の鳴き声が木々の奥から聞こえた。
さっきから思っていたが、今いるこの静かな日陰では、時間が止まっているというか、なんとなく流れが曖昧に感じられる。鳥居や社、綱、石造の牌、卒塔婆らしきもの、そういった静物から現在以外の時間、過去とか未来とかが一緒くたになって溢れ、現在と混じりあっている。とはいえそれは慌ただしい感じではなく、むしろ、凪いでいた。時が止まるとは、一体全体、現在が現在以外との区別を忘れることなんかいな。
では帰ろう、と私はUターンした。適当にしてはなんかええ感じに文学っぽいこと言えたし、これでよかろうダハハハ。
とか思いつつ敷石の道を戻ると、前から年配の女性が歩いてくる。今、マイナスイオンに包まれて穏やかであるし、なんかええ感じに文学っぽいことを言えてテンション上がってるし、我、挨拶なんかしちゃおうかしら、そう思ってすれ違いざま、軽く会釈して優しく声をかけてみた。
「こんにちは。今日はちょっと涼しいですね」
ガン無視だった。婆ァは一度こちらをチラと見遣ってから、歩みを止めることなく私の横を過ぎていった。なんちゅう無礼な婆ァであるか。こっちはいい気分になっていたのに、台無しではないか。
少しの間憤慨していたが、しかしかくいう私も本日はこの神社にてマナーを破りまくっている不逞の輩。神社サイドの判定では断然私の方が「あかん奴」なのであろうし、因果応報であるなぁ。
そのまま敷石の道を歩くと、行きがけには気づかなかった小さな仏像?が鎮まっているのに出会った。なんか、心が落ち着く。すぐ隣には賽銭箱があって、お金を入れようかと思ったが、財布を取り出すのが面倒だったのでよした。後日バチが当たるかもしれない。
いや、面倒だったのではない。なぜか分からないが、賽銭箱にお金を入れる勇気が出なかった。勇気?たしかにその時、財布を取り出してファスナーを開き、硬貨を一枚賽銭箱に入れるのを、それだけのことを、勇気がなくて、怖気付いた。なぜなんだろう。一切わからん。
勇気。その言葉に、じんわり心臓を掴まれるような感覚がした。自分の人生で、一番縁のない言葉かもしれない。お茶が飲みたい。
ふと町の方をみると、晴れかけていた空がまた、曇りはじめていた。雲が少しずつ町の上に蟠りつつあった。
空模様は変わりつつあって、神社の中も、もう静かに凪いではいなかった。
つづく