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幽霊、2025年2月の仕事。

2025年2月の仕事はZAITENの連載コラム。

ZAITEN『時代観察者の逆張り思考』

2025年3月号は「フジテレビの暗闘と漁夫の利を狙う文春砲」

「ZAITEN」3月号

まったくタイトルの通りで、それ以上でもそれ以下でもないが、原稿を書いたのは2度目の記者会見の前、広告差し替えが発生した直後の1月18日で、その後の展開は含まれていない。
ましてや生島ヒロシの追放も発生していない。
発生していれば、フジテレビなどそっちのけでヒロシの話を書いていた。
このあたりは月刊誌の宿痾なので仕方ない。

表紙や日経の広告に載っていないのもいつものことで、それ自体は別にいいのだが、どっかの博打打ちの適当な原稿のほうが優遇されているのは、さすがに釈然としないものがある。
メディアに露出しているタレントが優遇されるのは、こちらも編集者だったからよく分かっているが、馬鹿馬鹿しい気持ちになるのも事実だし、たとえば、そういう連中をコラムで取り上げるとタブー扱いになっているのも腹立たしい。

『サイゾー』で町山智浩、『ZAITEN』で古谷経衡を取り上げようとして止められたのは「同じ雑誌の執筆者だからダメだ」という理由で、まあ仕方ないのだが、実は望月衣塑子や森永卓郎を取り上げようとしてダメだ、と言われたこともある。
止められているうちに森永卓郎は死に、メディア上では偉人扱いで悼まれているから、ますます書きづらくなるだろう。
「非モテ」ブームを無責任に煽り、晩年も日本航空123便墜落事故の陰謀論を垂れ流すなど、ろくでもない人物だったと思うのだが。

「ZAITEN」3月号目次

附記徒然。

前回書いた通り、昨年末に渡す機会もない名刺を作ったが、むしろまだ残っていた関係性の尻尾を切断する区切りだと思っている。

批評家時代の人間関係はほとんど疎遠になっているのだが、これがまた滑稽というか、遠巻きに監視しているくせに、こちらから接触すると仲間内で吊し上げられるからのらりくらりと避けている者か、都合の悪い過去に言及されることを怖れて、甘言で口を封じようとする者のどちらかしかいない。

2009年に批評家を辞めた時点では疲れ果てていたから、セミリタイアして、名前が出ないタイプの実務だけ行うつもりだったが、不在で何も言わないと都合よく事実を捻じ曲げる者が散見され、5年経ったら怒りが溜まっていたから、コラムニストとして復帰した。

それから10年、怒りゲージは満タンを通り越して2巡目に入っている。
復帰しても体調が万全でなく、コラムを書くことしかできなかったからだが、そろそろこの怒りを体系立てて整理できないか、と考え始めている。

前回も「虚構の楽園」話に触れたが、コラムニストとしては批評家時代の論旨を避けてきた。
毎月の時事を評じるコラムで先鋭的な構造問題を書いても、大半の読者には関係がないからだ。

なので、個人的な研究に留めるのが妥当だろうと思っているのだが、先日、とあるところでサブカルチャー的な時代考証を依頼される機会があったこともあり、これで良いのか?という疑問も生じている。

なので、語るとすれば、かつての言説の延長線だが、他人の党派性に絡め取られ、都合よく利用されるのは不本意だし、内外からの妨害が入るのも間違いないから、それこそ『ZAITEN』の連載コラムのように、批評家時代の関係性とは無縁な場所で書きたい。
そんな場所があるのだろうか?とも思うが。

昨年、福田和也が亡くなったが、その福田も書いていた『諸君!』で大塚英志が「ぼくと宮崎勤の80年代」を書いていたのは、いまにして思えばかなりラッキーなことだったんだな、と思った。
大塚がそのあと、あのレベルで自由な原稿を書いていたのは、自分自身で運営していた『新現実』くらいで、実際、そのノリで『ファウスト』「世界がもし、舞城王太郎な村だったら。」を書いたら、同誌が仕掛けていたゼロ年代のムーブメントに水を差す内容だったので、掲載拒否を喰らっていた。

なので、こちらは真正面から批評するのではなく、戯作的にムーブメントをおちょくる「ファウスト人生劇場」という連載をやってみたのだが、これはこれでふざけすぎだ、と打ち切りになった。
20年以上、書いたことすら忘れていたが、いま唐突に思い出したよ。

同時期に『コミック新現実』で書いていた批評もだいたい忘れていたので、改めて読み返してみたが、この頃はある種の理想主義にかぶれていたんだな、と思った。
『カラフルピュアガール』連載の「N.C.P.」の最後のほうがそんな感じで煮詰まっていたけど、2007年頃まではそれを引きずっていて、そして疲弊していったんだろう。

思い出したくもないから忘れていたけど、煮詰まる前の先鋭的な構造問題というか、根源的な疑問はまた考え直している。

たとえば『GQuuuuuuX』とか、ゼロ年代当時はポスト・パンク的なカウンターというか、理想主義だと思っていた作品群とクリエイターが『ガンダム』という宗教的システムへ回収されることで、10年代以降の反知性主義で忌み嫌われ、冷や飯食いになっていたゼロ年代のムーブメントが再評価されるのだろうか、とか。

「反知性主義で骨抜きにされた挙げ句、ようやく体制側の正しい歴史に迎え入れられて良かったね」
とうに遠い辺境へ追放されている私は、そんな風にとても冷ややかに喜んでいるのだが、人間たちの集団精神史にはまた嫌なページが記されたものだな、とも思っている。

なので、商業的にはコラムニストを淡々と続けていく予定だが、趣味的にはようやく批評家っぽい思考を取り戻しつつある。
あくまで私の意識の問題なので、対外的には何も変わらないが。

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