お茶でもどうぞ|2025.1.22日記
アラームで6時起床。
夢に学生時代の友人や合宿仲間が出てきて、わたしはあまりに"きをつかえない"ので、仲がギクシャクするという夢をみた。
ギクシャクというのはそもそも、善し悪しではかれるものなのだろうか。
月日を重ねると、どんな関係性にも変化があるのは自然のことなのではないかと、わたしは思っている。
如何なるときも、自分や他者、周囲のものごととの状態や状況を、あらゆる角度や観点からみれる心身の健やかさやゆとりと。
どんなことにも「やってやんよ!」とファイティングポーズをとる心意氣と、どんな状況・状態であっても深く根付き、淡々と呼吸を吸って吐く平静、冷静さどちらも必要だ。
通勤途中いつもより5分早く出た。通勤通学ラッシュの時間帯だが、丁度のタイミングで曲がることができて、信号は全て青。「なんじゃこりゃ!?」と独り言を呟いていた。
一方、事故渋滞していたと仰る方もいた。どちらも同時に起こっている。
時代も天体もわたしも、変容の真っ只中なのかもしれないと感じる出来事があった。
湧き水を汲みに山のお不動様のところへ向かったら、先に汲みに来られている方がいた。
わたしたちは車内で「お昼寝でもして、待つとするか」とシートを倒して眠りかけていたが、先方が「何本汲まれる予定ですか?」とわたしたちのもとに尋ねて来られた。
「タンク4つです」と応えると、「それならお先にどうぞ。わたしたちはたくさんありますので」と仰った。
こちらは先に来られたのだからお先にどうぞと話したが、それでも「いいえ、どうぞ」と、先方は車内で待機された。
湧き水を汲むようになって7年。おしみなく注がれる自然の恩恵を頂き、なくてはならないものとなった。
いまだかつてこんな「お先にどうぞ」と言って頂いたことは、初めてだった。タンクの量問わず、順番通りが常だった。
山の湧き水は天からの雨量や海の満ち引きが水量に関係しているように感じていて(個人の感想です)、水量が極僅かなこともある。
今日は雨量がさほどないからなのか、やや少なめだった。先方はわたしたちのタンクよりも倍以上本数があったが、それでも「どうぞ」と仰ったのだ。
きをつかうでもなく、譲り合いなどの道徳でもなく、自らの意図・意思からの"おきもち"を感じた。
それには先方が、御供物(御神酒、お菓子)を線香を焚きお供えされて、祝詞をよんでらしたのをみたのも背筋が伸び、襟を正すきもちになった。"おきもち"の純度の高さを感じたのだ。
神社仏閣などで手を合わすことは、内なる神性にも手を合わせているのかもしれないとふと、感じた。
どんなときであっても、《自分は何をどのように感じ、どうしたいのか》で、ものごとや人とかかわることが、肝腎要。そう思う出来事だった。
写真は今は冬眠中で居ませんが、湧き水の場に身を潜めていた蛙さんです。けはいを消そうとしていましたが、あまりに身が大きくて隠れていませんでした。いのちにふれると、嬉しくなります。
今日もますます、ごきげんな一日を⚪️