『偽る人』(揺れる) (第6話)
房子という人(2)
遠慮してストレスをためている恭子や、卓雄におかまいなく、房子のわがままはエスカレートした。実家を飛び出してから幸男に任せてある塾が気がかりで、恭子の家から塾に通うと言い出したのだ。塾というより、心配なのは幸男のことだ。
恭子も、卓雄も、恭子の娘達も反対した。
元気だと言っても、房子はもう八十六才だ。房子の実家からは塾まで電車でたった四駅だった。けれど、恭子の家からは、バスと電車を乗り継いで行かなくてはならない。バッグや持ち物もあった。
けれど、房子は皆の反対を押し切って、強引に行こうとする。
それを聞いて、恭子の長女である久美が房子を最寄の電車の駅まで送っていくことを決めた。久美は恭子の家から車で十分ほどのところに結婚して住んでいる。
房子は勿論久美の申し出を喜んで、さっそく駅まで乗せてもらって出かけた。
けれど、塾の帰りの迎えは遅くなる。久美にはさすがに無理な時間だった。その負担が、卓雄にかかってくるとは、思いもよらなかった。
前の月から始まっている猛烈な暑さは、七月になると、昼間玄関を出たとたんにすぐ家の中に駆け込んで戻りたくなるほどになった。異常な熱気は夕方を過ぎてもおさまらない。
その日、卓雄は会社から帰ってくると、背広とワイシャツを脱いで、半袖シャツとステテコ姿になった。エアコンを最強にしていても、卓雄の額に汗がにじんでいる。
「おかあさんは、やっぱり行ったの」
テーブルに座って卓雄が訊いた。
「しょうがないなぁ」
時計を見ながら言った。七時を過ぎていた。
イタリアの留学生カティアは、その日は外で友達と夕飯を食べてくると言っていた。
彼女は日本語にはほとんど不自由しない。語学学校もさぼりがちで、日本のいい男にハントしてもらうのだと言って、原宿などによく出かけて行った。
可愛い顔をしているのに、勿体ない、と恭子は思った。けれど、夕飯が要らないのはありがたかった。
「帰りは何時になるんだろう」
卓雄は房子のことを心配した。あんなに反対したのに、押し切って行った房子を案じている。人が好過ぎる、と思った。
夕飯の支度はできている。お金に余裕があるわけではなかったけれど、留学生には勿論、房子には自分達のおかずに一品追加して出していた。
「駅まで迎えに行くよ」
卓雄が言った。
それはあんまりだった。
「何時になるか分からないし・・」
「いいよ、待ってるよ」
どうして卓雄は房子にこれほどやさしいんだろう、と思う。
卓雄は恭子に電話番号を訊いて、みずから塾に迎えに行く、と電話をした。車に乗るからビールも飲めない。食事も帰ってからにする、と卓雄は言う。
恭子は胸が痛かった。房子の横暴さに腹が立つ。そして、それを強く阻止できない自分にも腹が立つ。悔しかった。本当は、卓雄に気を使わせないように、自分が母親のわがままを諫めなければならないはずなのに。
もともと親子らしくない房子との関係だったけれど、恭子には房子に対する負い目があった。房子は生涯認めなかったけれど、恭子の家に我が物顔で強引に押しかけ、威圧的な態度をしていた原因は、そのことに違いなかった。
卓雄には詳しくは話していない。言わなければ、と恭子は覚悟を決めた。
登場人物紹介
恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。
卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。
房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。