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『偽る人』(揺れる) (第84話)

家に帰って

 後から思い出しても、家に帰ってからの数日が、初めて房子と心が通い合う、穏やかで、幸せな日々だったと思う。
 房子は素直で、よく話をした。恭子も、今度こそ房子と心がつながる、と思えた。

 ところが、元気だった房子の様子が、だんだん変わっていった。はあはあと息遣いが苦しそうになってきたし、表情もまた、以前のように暗い。施設に入る前に通っていた内科を受診すると、肺に水がたまっているようだと言う。
 それからまた入院ということになった。今度はS総合病院より少し恭子の家に近いC総合病院だった。
 C病院ではしばらく、ベッドの空きがなかったので、救急病連に入れられていた。その後普通病連に移されたが、S病院と違って、六人がぎゅうぎゅうに詰め込まれた感じで、カーテンで囲むと歩くスペースもなかった。
そこには二週間ほど入院して、溜まった水分を抜くために、利尿剤が点滴でいれられた。けれど、そうしているうちに、房子はどんどんやせ、どんどん元気がなくなっていった。
 表情も、S病院にいた時のように明るくない。以前のように、恭子に嫌な言い方もするようになった。
病院に行って、
「何か要る物はない?」
と訊く恭子に、
「例えば?」
と、意地の悪い顔をして訊き返すのだ。すっかり元通りの房子になっていた。
 
房子がC総合病院を退院してから、恭子は忙しくなった。新しいケアマネの工藤さんがプランを立ててくれて、デイサービスに通うようになり、訪問介護の人が来て、入浴させてくれ、訪問マッサージも来るようになった。
 病院に通うのも大変なので、それまで行っていた内科から、工藤さんの紹介で、訪問医師に替えてもらうことになった。
すると、その訪問医師も房子の体調が安定しないので、不定期に頻繁に通ってくれる。そのたびに、薬局に処方された薬をもらいに行くと、混んでいるので、たいてい一時間は待つのだった。

 ケアマネの工藤さんとプランを作成する日や、介護の人達の集まりも頻繁にあった。
 デイサービスの日には、風呂に入れてくれるので、持って行く着替えやタオル、薬の準備、連絡ノート、などの準備に、抜かりはないかと緊張する。送迎のバスの時間に遅れないようにと、これも緊張した。 

 そのうえ、肺に水がたまってしまう房子の食事や水分の管理が大変だった。食事の塩分を考えたり、水分を調節する。飲んだ水分の量を、いちいちメモしていった。
 けれど、この水分や塩分の調節は、しばらくすると、水分を抜きすぎて元気がなくなることも考えて、工藤さんが、普通の食事にもどすことを提案してくれた。房子の食事の量は、ずいぶん少なくなってきていたので、少しでも食べられることを優先したのだ。

 この頃、恭子はいろいろなことがいっぺんに重なった。
 北海道の施設に入っていた卓雄の母親が亡くなって、ふたりで北海道を訪れた。
 それまで遠くの社宅に住んでいた亜美が、恭子の家から車で二十分くらいの所にある大きな中古の家を、迷った末に買うことに決めた。その手伝いもした。
恭子自身も、体の不調や怪我が途切れることなく続いていた。房子の施設を引き上げる荷物の片づけと掃除で無理をして以来、ひどい坐骨神経痛が治らず、ちょっと立っていると、呻くように痛くなる状態が続いていた。
 おまけに、雨の日に自転車で房子の薬をもらいに薬局に行って、転倒して、右足のじん帯を切り、ひざの骨にヒビが入る怪我をした。
 それが治ってしばらくして、今度は右足の甲の骨を折り、しばらくギブスをして松葉杖をついた。
 房子に比べれば勿論若い。けれど、恭子は無理をして、あちこち体が痛んでいたのだ。そんな恭子を目にしても、房子は冷たかった。
ささいなことでも自分の体の心配をするというのに、房子は、恭子の体や足を気遣うことはなかった。

 房子は再び家に帰ってからも、他人には相変わらずのパフォーマンスをした。高齢であり、体も以前に比べて弱っているのに、気持ちだけは変わらない。他人に良く思われるこが、房子のすべてだった。
デイサービスから帰ってくると、房子はバスから降りる時に、中に残っている人達のところにわざわざ行って、元気よくお別れのハイタッチをしてくる。降りた後は、迎えた恭子に荷物を持ってもらい、手をつないでもらいながら、笑顔でバスを見送る。九十五歳の枯れたおばあさんとは、とても思えない元気なしぐさだった。
そうして、元気でかっこいいおばあさんをひとしきり演じた後、家に入ると、恭子に靴を脱がせてもらって、玄関を上がり、ソファーにへなへなと崩れこむのだ。ありったけのエネルギーを使い切った壊れる寸前の機械のようだった。そしてそのまま何時間も眠り込んだりした。

房子の演技は、訪問してくれる医師にも向けられた。中年の医師は、呼吸器が専門だったので、心臓が弱っている房子にはちょうど良かった。
 医師はいつも男性か女性の看護師を連れて現れ、ざっくばらんで親しげな話し方をした。
 医師がくると、房子は、
「先生がいらっしゃるのを、待ちわびていましたぁ」
と、甘えた声と笑顔で迎えた。そして、つぎつぎ新しく不調な症状を訴えて、薬を追加してもらった。
 話の途中で、なにかの拍子に、房子は肩をすくめたり、まるで少女のようなジェスチャーをする。おまけに帰る時には医師の手を両手で握りしめて、ほおずりした。房子の最高級の親愛の情を表しているのだ。恭子は房子の、このオーバーなジェスチャーが、こびているようで、嫌でたまらなかった。
 これは、房子が先天的に持っている才能なのだろうか。何も考えずに、自然にこんな演技ができてしまうのだろうか。普段家の中で、暗く、無口な房子が、まったく別人格になるのを見て、恭子は恥ずかしくたまらない。いたたまれない気持ちになった。
 けれど、医師にしたら、まんざらでもないのだろうか。穏やかな笑顔で帰っていく。これが普段の房子だと思っているのだろう。
 医師は、穏やかないい人だった。房子がかぜをひいて、痰がからまって苦しい時には、
「辛いねぇ、楽にしてあげるからね」
と房子に言葉をかけた。
 恭子はその頃、坐骨神経の痛みを抱え、膝の怪我もしていて、床に座ることができない状態だった。医師にこんなに心から優しい言葉をかけてもらう房子が、つくづくうらやましかった。

 訪問の医師が来始めて少ししてから、房子は一時、危ない状態になったことがあった。食べられないし、水分を抜いているから、骨しかないほどにやせている。そこへ痰がつまって苦しそうだった。意識も無くなりそうで、医師達がきていても、口を開けて眠っていく。
もう、死んでしまうのではないかと思った。
このまま房子が死んでしまったら、この数か月間の恭子の体を酷使し続けた日々は、浮かばれないではないか。悲しすぎる、悔しすぎる、と思った。
 自分ひとりで死なせてしまったら、と責任を感じて、幸男にも電話した。久しぶりだった。もう、長くないかもしれないから、会いにきてあげて、と言った。電話のむこうの幸男は、素直な声だった。
 けれど、房子がそうして横たわっている間、幸男が来ることはなかった。
 
 それでも房子はまた徐々に回復していった。
少しずつ食べられるようにもなった。歳を取って、やせてはいても、強靭な体だった。

そんな房子が突然言い出したことがあった。悠一が住んでいる家を売る、と言うのだ。
 悠一の妻は認知症がひどくなり、寝たきりになって、意識がないまま長く病院に入っていたが、その後亡くなった。
 その家は、房子が買った物だ。恭子達は、悠一に与えるものだとばかり思っていた。
自宅にローンを払ってきた幸男や恭子と違って、悠一は、これまで住居のためのお金が要らなかった。恭子の家より都心には少し近いけれど、もう、ずいぶん古い家だ。房子はいつかはその家の整理をしておきたかったのかもしれない。
房子はその家を売って、悠一と幸男、恭子の三人に分ける、と言う。どうして急にそんなことを言い出したのか分からなかった。
 自分が長くないことを思って、だろうか。
幸男がかわいいからだろうか。あるいは、骨折してS総合病院に入院している時に、毎日自転車で通った恭子に、気持ちがほだされたからだろうか。
 恭子もびっくりしたし、卓雄は悠一がかわいそうだと恭子に言った。
 けれど、当の悠一は、もう話にならない人だった。房子に言われるままに、恭子はあちこちの役所に出向き、書類を集めた。不動産屋にも相談した。
 悠一が住んでいるその家は、古いうえに、書類の管理が杜撰な房子は、大事な書類がなにもない。あちこちたどっていくそれらの作業は大変なことで、延々と時間がかかった。

 しかし、あんなにお金に執着し、他人に贈り物をし、お金の力で自分の人気を維持しようと努めてきた房子だったが、もう、自分の限界を知ったのか、以後お金のことには恭子に任せて、一切関知しなかった。

 悠一の家を売る話の相談で、幸男はあれから初めて恭子の家にやってきた。房子が瀕死の状態で連絡しても、とうとう来なかったのに、遺産の話になって、初めて顔を出したのだ。
 房子はこの時初めて、幸男に、恭子に世話になっている、礼を言ってちょうだい、と言った。けれど幸男は相変わらず、恭子に礼など言える人間ではない。房子にそんなことを言われたことが腹立たしいらしく、憮然とした表情のまま、何も言わなかった。

 そうやって、房子の少ない親族は、ばらばらに崩壊していった。
 悠一はもとより幸男を嫌っていたが、家のことで、房子を恨み、幸男や恭子を恨んだのだろう。
 そうして、介護も何もしないで房子に庇護され続けた幸男は、労せずに房子の遺産を手に入れることになったのだ。

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登場人物紹介

恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。

卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。

房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。

幸男:房子の長男。恭子の兄。若い頃から問題行動が多かったが、房子に溺愛され、生涯援助され続ける。仕事も長続きせず、結局房子の塾の講師におさまる。

悠一:房子の実弟。房子とかなり歳が離れている。

やすよ:幸男の嫁。人妻だったため、結婚には一波乱あった。房子は気に入らず、ずっと衝突し続ける。

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