『偽る人』(揺れる) (第68話)
我慢できない(2)
房子から受けるストレスの中で、恭子が一番堪えるのは、房子が石のように黙り込むことだった。それは、いつまでたっても直らなかった。
がんばって一生懸命作った料理も、房子はおいしいとも言わずに、黙って、つまらなそうに、暗い表情で食べることが多かった。
例えば、もうすぐ料理ができるという時に、お菓子を食べようとする房子を注意する。食べ物が詰まるから、姿勢を良くした方がいい、と言う。そんなことでも、房子が機嫌が悪くなって黙りこんだ。
言葉が見つからないのではなかった。他の人には百倍も千倍も饒舌になる。房子のだんまりは、強い抵抗、最高に嫌な気持ちを表すだんまりだ。これが、どんなに相手を威圧して、絶望に陥らせるかは、房子のその態度に実際接した人しか想像ができないと思う。喧嘩をしてでも言い合うならば、まだ救われる。
けれど、房子のその硬い岩のような抵抗に遭うと、やりきれない無力感と苛立ちを感じた。
話し合いの時にも黙ってしまうので、ある時、恭子はどうして黙っているのか訊いた。
すると房子は、
「黙って耐えている」
と言う。この言葉に、恭子は余計傷ついた。
これは、親子の会話ではない、と思った。
「何を言ったらいいか、分からない」「言葉がうまく見つからない」「言ったら、悪くとられる」
こんな言葉をようやくボソッと言ったこともあった。
なおも追求すると、房子は黙ったまま、鼻水をすすった。房子の言葉を求めて、もどかしい思いに耐えている恭子に、房子はまるで、自分がいじめられている人のように振舞うのだ。話にならなかった。
そうしてだんまりを続け、弱い年寄りを演じたかと思うと、強い顔で主張して譲らないのも、相変わらずだった。
夜お風呂に呼びに行くと、
「テレビが1チャンネルひとつしかつかない」
と、房子がベッドに腰かけて言う。
「ひどいテレビを買っちゃった」
と房子は怒る。
「またどこかいじっちゃったんでしょ」
と言っても、以前と同じように、
「絶対どこもいじってない」
と、強い顔で言い張る。そんなはずがないでしょ、と卓雄を呼んだ。
卓雄はあちこち試してから、
「おかあさん、ここを動かしたでしょ。だめですよ、ここを動かしたら」
と言う。見ると、どうしてこんな所を動かすのかと思うようなところを動かしていた。
ここで房子が、
「そうだったの!」
とにこにこして言うのなら良かった。「ありがとう」とか、「ごめんなさい」なら、何も問題はなかった。
ところが房子は、注意されたのが不服で、ぶすっとしたままなのだ。
房子のだめな所はどうしても直らない。
食卓の、房子のすぐ足元にゴミ箱があるというのに、房子はいつも見もしないで、無造作にゴミを捨てるから、ゴミ箱の周りに丸まったティッシュがいくつも落ちている。卓雄も、そのゴミを拾ってゴミ箱に入れたことが何度かあった。
毎回、あんまりひどいので、迷った末に、洗面所から帰ってきた房子に、ゴミのことを言ってみた。
すると、房子は無言のまま、苦労してゴミ箱の前でしゃがんで見せた。そして、無言でティッシュを拾うと、ゴミ箱に入れた。
どうして黙っているのだろうかと思う。房子の無言に、ゴミぐらい拾ってくれてもいいでしょう、という、こちらにとっては理不尽な怒りが見てとれた。毎回のことだから、房子だって、ゴミが入っていないのが分かるはずだった。
相変わらず、当たり前のように卓雄を使うのも嫌だった。
出かける前に、卓雄がすぐ近くにいるのに、
「一時に○○の駅だから、十二時二十分ごろのバスに乗れば間に合うかしら」
と言ってみせる。
「そんな言い方をしないで、ちゃんと頼めばいいでしょう」
恭子が言うと、
「卓雄さん、送ってください」
房子は、言われたから言います、というような、感情のない機械的な言い方で返す。
「そんな強い言い方じゃなくて、『送ってもらえないかしら』とか、やさしく頼めないかしら」
すると房子は、
「あ、そ」
とだけ言った。
何を言っても無駄だった。普通の感覚とか、常識とか、まるでない。本来なら、
「卓雄さん、ほんとに悪いけど、駅までお願いできないかしら」くらい言うものだろう。恭子なら、そう言う。
あるいは、気を使わさないように、タクシー券が余ってしまうので、とでも言って、そっと行くべきだろう。卓雄に悪いなどという気持ちはまったく無いようだった。幸男には、あんなに遠慮するというのに。
ある夜には、こんなこともあった。恭子達が用事で出かけたために、房子のお風呂が遅くなってしまっていた。卓雄が先に風呂に入った後、房子を呼びに行った。
結局、支度に時間がかかる房子は、十二時半頃風呂に入り、一時一五分くらいに出てきたのだが、脱衣所で、かなり時間がかかっていた。
次に入ろうと、恭子が待っているのだけれど、いつも以上に長い。恭子はいつものように、房子の衣類を運んで、房子が階段を上がる手伝いをしようと待っていた。
するとしばらくして、房子が脱衣所のカーテンを開けて、ダイニングに出てきた。
ところが、見ると、房子は上は袖のない肌着、下はバスタオルを巻いただけ、という姿だった。パンツはまだ履いてない、と言う。かつらもかぶっていなかった。
隣りの居間には卓雄もいる。いつもの房子なら、絶対に見せない姿だった。びっくりした。
慌てて、
「いいの? そんな恰好で・・」
と訊くと、
「良くはないけど・・」
と、房子は居直っている。
房子はそんな姿のまま、ダイニングの椅子に座って、テーブルの上のティッシュペーパーの箱をとって、何枚も何枚もがさがさと紙を引っ張り出している。そうして、そのティッシュで、片足をいらいらした様子で拭いていた。
房子は、恭子があげた湿布を貼ったまま、風呂に入ったけれど、べたべたが取れないと言って苛立っていた。その湿布は、恭子が以前怪我をした時に整形外科でもらった残りだった。房子に頼まれてあげたものだ。
房子は、その方が効くかと思って、いつも湿布を貼ったまま風呂に入る、と言った。
時間はどんどん経った。房子はいつまでもいつまでも、いらいらとティッシュで拭いている。まるで、恭子の湿布のせいだといわんばかりだった。
恭子がしびれを切らせて、
「おかあさん、もう一時間になっちゃう・・」
と言うと、
「言われた時間に来たんだけど・・」
と、房子はぼそっと言った。
遅い時間に風呂に呼ばれたことが気に入らなかったのか、本当に湿布に苛立っていたのか、分からなかった。
けれど、そんな恥ずかしい姿を晒してまで、自分の苛立ちを見せつける房子の気の強さに、恭子は辟易としていた。
登場人物紹介
恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。
卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。
房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。
↓↓連載小説のプロローグはこちら↓↓
↓↓連載小説の1話目はこちら↓↓