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時代は誰のものか

常に何かの恐ろしさを覚える。

「あのときは良かった」

枕詞としてその言葉が使われるとき、目は細まり、一瞬遠くを眺める。

青春であったり、自分や家族の転換期だったり、仕事の節目だったり。

何かを懐かしむという目をするとき、10円玉に紙を当てて鉛筆の腹でこすり陰をうつすように、当時の記憶を思い出す。

時々薄くなったり、濃くなったり。

その時、自分は確かにそこにいた、と。

まるで証明をするかのように。

時代は人をうつす鏡、とはよくいったものだと思う。

例えば30も40も年下の人たちに「森繁久彌っていう名俳優がいてね」と言うと、大抵相手はポカーンとする。

「あーそうだよね。古い人だしねえ。平成生まれだもんわからないよねえ」

ごめんごめんと言いながら、思いを馳せる。

(なんだ、この人)

と訝しがる相手を尻目に、「今の人たちにはわからないよねえ」と眉を‘へ’の字にする。

訝しがる気持ちはよくわかる。

だけど、今の小学生の中で流行っているものを、中学生は鼻で笑うし、高校生も手をひらひらさせる。

あの時代、夢中になっていたもの、周りが夢中だったこと。

そこには確かに自分がいた、という証がある。

そしてその時代を経験していない人が、その時代のことを語ろうとすると、経験してないからそんなこと言えるんだと、さげすむ。

まるで、俺たちの時代を汚すな、と言わんばかりに。

「思い出話」は否定されやすいし、否定しやすい。


過去には今を、これからを生きるヒントが転がっている、と誰かがどこかで言っていた。


時代は、誰のものか。

時代とはどう付き合っていけば良いのか。

主観と客観だけではない「何か」が、ありそうな気がする。


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