さらみ

頭に浮かんだり、考えたりしたことを忘れた頃につらつらと書いてます。よろしければお付き合い下さい。

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最近の記事

自己に閉鎖的な人間が、開放的な場を運営すると、場に惹かれるとその人に惹かれるとの間にいくつかの誤差生じる気がする。その人がいる場だから良いのか、その人がつくる場が良いのか、その場そのものが良いのか。似て非なる。

    • ある友人は、核攻撃を怖がった。またある友人は、民主主義がある限り独裁者は生まれると社会構造を怖がった。ある友人は、保険料が支払えないかもしれないことを怖がった。ある友人は人から怒られるのを怖がった。怖いものなんて何も無い!と言った友人は交通事故で逝ってしまった。

      • 当事者のことばは何故暴力性を孕むのか

        当事者のことばが重要視されている昨今。 「経験もしていないのに、偉そうに言うな」という言葉を各所で聞く。 また、「当事者の意見を聞け!」という怒号のような、叫びのような声も聴く。 ある時は被災地の現場で。またあるときは、支援の現場で。 被害を受けている、苦しんでいる俺たちの実態を知ってくれ!そのうえでものを言ってくれ。 声や主語の大小はあれど、このような言説が折衝などの場で使われることは珍しくはない。 ここで、少し横道にそれ、当事者の自信について考えていく。 当事者が自信

        • ☆こども病院30周年病院祭に行ってきたよ

          中学2年生の時から15年近く通っていたこども病院。今年30周年ということで病院祭に来ました。 外のステージでは、近隣の小中学校の吹奏楽部の発表が会場を賑わしていた。 久しぶりにお会いしたドクターやスタッフ、ボランティアの人達ともお会いできた。 もう患者として来ることは無いこども病院。 ・通院後、会計待ちで買った自販機。 ・電話ができる夕方の限られた時間、病棟の外で「帰りたい」と泣きながら家に電話をかけた自販機横のイス。 ・何もすることがなく、何度も何度も歩いた廊下。 ・スト

        • 自己に閉鎖的な人間が、開放的な場を運営すると、場に惹かれるとその人に惹かれるとの間にいくつかの誤差生じる気がする。その人がいる場だから良いのか、その人がつくる場が良いのか、その場そのものが良いのか。似て非なる。

        • ある友人は、核攻撃を怖がった。またある友人は、民主主義がある限り独裁者は生まれると社会構造を怖がった。ある友人は、保険料が支払えないかもしれないことを怖がった。ある友人は人から怒られるのを怖がった。怖いものなんて何も無い!と言った友人は交通事故で逝ってしまった。

        • 当事者のことばは何故暴力性を孕むのか

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        記事

          クリエイティブではない者

          https://toyokeizai.net/articles/-/697841?page=2 私は何かを生み出す、作り出すことにとても苦手意識をもっている。 一方で決められたことを正確にやる事務が得意というわけでもない。 クリエティブではない自分は、これからどう生きていったら良いのか、と相当期間悩んでいた。 記事の中に 「フロイトは『文化への不満』に、「芸術家のように生きるのは不可能だ。自分の人生を芸術家のような人生にしてはいけない。なぜなら芸術家は不幸だからだ。芸術家

          クリエイティブではない者

          【『こんな自分でも生きていて良いんだ』が根本にあるということ

          以前、『生きてるだけで良い』の声かけに対して「それだけではダメだ」みたいなことを言ったことがある。 その言葉を捉え過ぎて、大事にしてしまえばしまうほど、自己正当化から抜け出せなくなってしまうというのが理由だ。 「それだけではダメだ」に関してはそのとおりだと思う反面、『生きてるだけで良い』は根本でもあり、アイデンティティにもなり得るとも思う。 『生きてるだけで良い』について、考えたり悩んだりする時間が長ければ長いほど、思考の渦の中に埋まってしまう。 人権ということについて、常

          【『こんな自分でも生きていて良いんだ』が根本にあるということ

          ニート・ラプソディ

          ラプソディなんてかっこうをつけてみたが、実際はただのニートだ。 まともにはたらかなくなって2年が経った。 公務員を辞め、せっかく拾ってもらったスタートアップではミスを連発し、使い物にならなかった。 そのあとようやく入った会社でも、4カ月で休職。 ハローワークに通っている。 ライターとしての記事も半年近く書けていないし、せっかくもらった個人の仕事も結局達成することができなかった。 地域活動でも、友人関係でも、信頼と信用がなかなか築けない。 中野市で大きな事件が起こった。

          ニート・ラプソディ

          ☆手術室に入るとき鼻をつまむって話をしたよ

          入院です。 元気に夜の病室でパソコンをいじっております。(寝ない) 今回は結局拒絶反応ではなく、急性腸炎という診断でした。 お腹の調子も本来に戻ってきて、おかげさまで退院日が決まりました。 移植後2年目ということで、まだまだ注意しないといけないことがあるようです。 さて、2年ぶりの小児病棟です。 当然ながら入院しているのはこどもです。僕は十代後半以上の男部屋ですが、いいですね。いびきがなくて。昼間は互いにヘッドホンしてゲームや音楽や動画を見ているから、隣の音が気にならなく

          ☆手術室に入るとき鼻をつまむって話をしたよ

          対話宣言

          「対話」を万能の盃でなく、「ひとつのツール」として継続的に使用している方々ほど、対話の限界を知っていると思う。 「例え多くを救うことはできなくても、それでも対話を続ける」 これは宣言であり、覚悟であり、職人気質の「ある種の諦め」でもある。 ペンは剣よりも強し、ということわざは「言論の力は、政治権力や軍隊などの武力よりも民衆に大きな影響を与える」(Wikipediaより)という意味だそうだ。 「対話」という技法は、その名称のつく前から人類によって脈々とつづけられてきた方法だ

          対話宣言

          【殴られても殴り返すなという人たちへ 殴られたら殴り返せという人たちへ】

          前提として、平和を望むのは、傭兵や戦争を商売にしている人以外は同じ。それは自分も変わらない。 でも、世界史は止まっていない。 血と国益。 自由と独立。 ロシアやウクライナの歴史を調べれば調べるほど。世界史を見返せば見返すほど。 過去も今もこれからも、人の血が止まることはないんだということは事実や予想ができてしまう。 外交は笑顔で右手握手をしながら、左手では背中に刃を忍ばせるともいう。 単にロシアを悪とするのではなく、単にプーチンを悪にするのではなく。 外国と陸続きになる国

          【殴られても殴り返すなという人たちへ 殴られたら殴り返せという人たちへ】

          共感の副作用

          今日、哲学カフェがあります。 共感という病 https://www.amazon.co.jp/dp/476127560X/ref=cm_sw_r_apan_glt_i_S7WWJS52ADXXTGFTFM5T 寄り添わない支援について投稿した本旨はここにあります。 常に価値観のアップデートを求められ、新しい価値観、元々あったけど表出してきた考え方をどうしても受け入れられない人たちを「古い考え」「時代遅れ」と揶揄する。 留まることも良しとせず、さも「俺は新しい考えに理解があ

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          ☆医療器具や傷跡は何故”勲章”と呼ばれてしまうのか

          【頑張った証としての勲章。】 そんな言葉がいつの時代も散見している。 特に、体に入っている医療器具や手術痕などに対して使われることもある。 私も小さい時から「その傷やCV(中心静脈カテーテル)はさらみくんが頑張った証だね。勲章だね」と言われ続けた。 勲章。 主に国家あるいはその元首などが個人に対し、その功績や業績を表彰するために与える栄典のうち、章飾の授与を伴うもの、あるいはその栄誉を示す章飾。(Wikipediaより出典) 転じてこの場合は、見える形として残った

          ☆医療器具や傷跡は何故”勲章”と呼ばれてしまうのか

          いじめと〇〇と

          いじめってさ、その時はとてもじゃないけど止められない(典型的なのは「自分に矛先が向くかもしれない」「あいつ(被害者)も悪いし」) だけど、ひとたび表に出ると、「いじめはいけない!」と。 学級会や学校集会で先生が「こういう事態がありました」と言う。もちろんその時その場にいた人たちもその場にいる。 止められなかった自分を責める人もいるだろうけど、正直「面倒なことしやがって」と思う人もいると思う。 ましてやいじめが運動部の中で起こって、事件レベルになったとき、出場中止とかになると

          いじめと〇〇と

          ☆『闘病記』を平手打ちした話

          闘病記が嫌いだ。 壮絶な闘病を経て今私たちに命の大切さを教える、生きた証を残す、自分の人生を生きろなどのキャッチコピーが帯にでる。 病気に至るまでの経緯、治療の経緯、あらゆるものを諦めなければならない過程、家族や友人との関係、葛藤。最後には悟った「生きるとは」の言葉がまるで神様からの言葉のように語られる。 死地から舞い戻った上での悟りか。 主人公が亡くなっていればあとがきには家族の言葉が出る。 元も子もないが、そこに「明日」はない。 言いっぱなしである。 ほとん

          ☆『闘病記』を平手打ちした話

          小腸移植備忘録

          手術から1週間が経ちました。 27cmだった小腸は3mになりました。 GICU(なんか超すごいICU)に3日ほど、その後HCU(一般病棟に移るまでの管理をしてくれるICUみたいなところ)に現在までおります。 少しずつ病棟の中を歩きながらリハビリをしています。 鼻管とドレーンの痛みで精神力やらテンションやらをもっていかれたり、初ストーマにあわわあわわしていたり。 それでも第一関門の手術を突破し、第二関門の初めの拒絶反応は点滴によってちゃんとコントロールされるようになっ

          小腸移植備忘録

          無自覚を自覚してみる

          僕は時々、自分が書いた文章を見返す時がある。 内容、表現、文の長さ、更新頻度などを見る。 余裕のある時とない時、見れてる時と見れてない時、更新頻度が高いと低い時。そういうのを自分のバロメーターにしてる。 最近は、更新頻度が低いし、使う言葉も斜め下を冷笑するような言葉が頻発している。 見方も雑だし、深くも広くもなく、メタ的視点も中途半端。 突っ込まれたら何も言えないぐらいの脆弱さ。 こういう時は自分がない時にあらわれやすい。 最近何かに余裕がない。 仕事、は忙し

          無自覚を自覚してみる