見出し画像

どう思われるかに一所懸命で、どう思いたいかに無頓着

「見せることに一所懸命で、見られることに無頓着」
電車でお化粧をする人を評して友人が言った言葉です。
この言い回しが私はとても気に入っていて、というのも汎用性がとても高いからです。(以前も何かの例でブログなどに書いた記憶が…)

今回のテーマは、タイトルの通り「どう思われるかに一所懸命で、どう思いたいかに無頓着」です。
もう少し丁寧に書くなら「(自分の言動が相手に)どう思われるかに一所懸命で、(自分自身が相手を)どう思いたいかに無頓着」。

繊細だったり不安が強いが故に相手の顔色や表情を読みとろうとする癖の強い人にありがちなのが、自分の言動で相手がどう反応するかが気になる→不安で気を遣う→気を遣わなきゃいけなくて息苦しい、みたいな状態です。
つまりは、相手にどう思われるか(主に悪い方)が不安で、それを解消するために相手に配慮したりおもねったりしないといけないと思っている、ということだと思います。
(ひょっとするとその思考が習慣になりすぎて、不安を感知できていないかもしれません)

この相手への気遣いについて、ちょっと見方を変えてみましょう。
それって、自分が不利益を被らないために、相手をコントロールしようとしていませんか?
相手が嫌な思いをしたり不機嫌になったりしないために、自分の言動に気をつけなきゃいけない、というのは逆から見ると、自分の言動で相手の気持ちを左右できると思っている、ととることができます。
ちょっと嫌な見方かもしれませんが、この視点がある意味正しいことは、気を遣ってきた人ほど実感として理解できるのではないでしょうか。
自分の言動の結果、相手がどんな反応をするかを一所懸命観察して情報をストックしてきた人は、この言動なら相手の機嫌が悪くならないだろうという手札をたくさん持っていて、それを多分、気遣い・配慮・常識といった「手役」としてコミュニケーションで戦略的に使っています。
つまり自分の手札をどう使うかで、相手の出方を自分に有利なものにするという成功体験をたくさん積んでいるんですね。

相手が嫌な思いをしないように、という気持ちはもちろんあるでしょう。
それはとても素敵な気持ですし否定しません。
ただ、そのさらに深くには、相手の機嫌や自分への評価(好き嫌い)によって自分が嫌な思いをしたくないという気持ちが、結構な確率で潜んでいると思います。
そもそもその気持ちがなければ、一所懸命相手に配慮しなければ!という責任感は強く出てこないはずだからです。
これが「(自分の言動が相手に)どう思われるかに一所懸命」のお話。
相手を慮ってるつもりで、本質的には、相手にどう思われるかのベクトルで一所懸命になっているのではないでしょうか?ということです。
(もちろん、わざわざ相手に失礼な言動をしたり、怒らせるようなことを積極的にやっていいわけではありません。いつも誰かが自分の言動で不快になっている、という事実がもしあるのであれば、それはコミュニケーションや関係作りの方法を学び間違えてきた可能性があり、今回のテーマとは似て非なる課題です。)

ちなみに「どう思われるか」を気にすることはナンセンスです。
だって相手の気持ちを100%コントロールすることは不可能だし、相手が自分をどう思っているかの真実を他者である自分が完璧に知って理解することも不可能だからです。
できないことに神経を割くのは心の無駄遣いだと思います。

さて、続いて「どう思いたいかに無頓着」のお話です。
まず、一度ここで考えてみて下さい。相手に配慮した言動をしなければならない、と思っているあなた自身は、相手のことをどのように思っているでしょうか?どんなふうに思いたいでしょうか?

はい。考えましたか?
要注意なのは
・相手を好きで大切に思っているから、よく思われるために(嫌われないために)配慮したい
・相手を好きではないけど、常識や関係性のために配慮しないとまずいみたいな場合です。
前者は「どう思われるか」のナンセンスの例と同じなので説明は省きます。
(因みに相手を好きで、どう思われるかを意図せずに自発的な思いから配慮するのは素敵なお話なので、そのまま大切にして下さい)

さて後者についてです。
他者に一所懸命配慮してきたのに息苦しい、生きづらい、と感じている人は、その気遣っている相手のことが本当は好きじゃないし好きになりたくなんかない、と思っているのではないでしょうか?
私自身子供の頃から、生きづらかった期間を思い返すと、大抵の他者が「嫌い」でした。
私ばっかり気を遣って配慮して相手に合わせて、なのに相手は同じレベルで返してくれないと感じていましたし、配慮ができない相手だとどこかでバカにしていました。
つまり、そもそも相手を好きじゃなかったし、なりたくなかったんです。

その気持ちに無頓着なまま、無意味な「どう思われるか」のアンテナを全方位に向けていてもしんどいだけです。
好きじゃない相手にどう思われようが知ったこっちゃないし、例えば仕事上不都合があるなら、嫌いであることを認めた上で戦略と割り切って角の立たない言動を選べばいいんです。
(先に書いたように、それでも不利益を被っているなら、戦略の立て方の学びに課題があるので、その点では努力する価値があるでしょう)

しかし過去の自分を振り返ると、どうせ期待以上の報酬が返って来ないという前提のもと、積極的に他者を嫌いになりに(バカにしに)いっていたフシがあります。
私が嫌いになりにいっている相手は、そのことを言外に無意識的に察知しています。
だから見せかけの配慮をしたところで、相手は本当に私のことを好きにはなってくれません。
自分が相手をどう思っているかに無頓着だと、結局は一番気にしていたはずのどう思われるかに影響が出ることになるのです。

そして相手が好き、もしくは好きになりたいと思って内発的に出てくる言動と、自分の得(嫌われない・評価されない)のために外圧的に出している言動とでは、恐らく結果が変わってくると思います。
何より、自分がどう思っているかにアンテナが立ち始めると、定型的な「こういう言動をしなければならない」から解放され、自分の振る舞いを積極的に選べるようになっていきます
選ぶ・選べることで、息苦しさも減っていくでしょう。
いいことづくめ!

というわけで、今日の結論です。
他者からどう思われるか?というコントロールの難しい課題を手放し、自分は相手をどう思っているか?から言動を選び始めてみませんか?

#note #コラム #自己肯定感 #HSP #生きづらい

読んでくださりありがとうございます☆サポートで美味しいコーヒーショップのミルクティを飲んで、またよい記事が書けるようにお勉強します!