「わたしは仕事ができない」と自覚したい:仕事人としての段階(4/6)【さらば、noteを書く理由(11)】
1、2、3はこちら。
時間差で言葉と向き合う
夜から朝方まで本気で叱られ続けたわたしは、それから数日経っても師匠の言葉が頭から離れませんでした。
そのひとつが、
「おまえごときが、普通にやってなにかを変えられると思ってるのか」
という言葉です。
ほかにも、
「おまえが仕事できるとかできないとか、そんなことには誰も興味がないんだ」
「おまえみたいな出来の悪いやつが仕事できるって勘違いしてるから、会社はよくならないんだ」
「おまえのことなんて、みんなどうでもいいんだよ」
「おまえは10年以上も働いてきたのに、まだそんなところにいるのか?」
といった言葉が次々に浮かびました。
完全否定でした。一見して酷い台詞です。これだけを切り取れば、言葉の暴力と言って差し支えないかもしれません。
でもこれらを口にした師匠の声は、まるで悲鳴でした。表情はまっすぐに、泣き出す寸前のようでした(実際、少し泣いていたかもしれない)。少なくとも嫌味や皮肉といった色は一切ありません。
次第にその意味についてわたしは自然と考え始め、やがてふたつのことに気付きました。
ひとつは、
「師匠の言っていたこととやっていたことに、矛盾は一切なかったこと」
もうひとつは、
「とどのつまり、師匠が言いたかったことはたったひとつだけだったこと」
です。
異常なほどまとも
師匠は「ひとがひとを変えることはできない」と言いました。
「可能性があるとしたら、"違う価値観"をそのひとの目の前に置いて、興味を引き出すことだ」とも。
ひと晩説教されたわたしは、"違う価値観"を押し付けられたと思い込んでいました。しかしよく考えると、師匠は"違う価値観"について直接的な言葉をひとつも発していませんでした。
師匠が言っていたことは、要するに、
「変えろ!」
ということに尽きます。つまり「エゴを捨ててもっと必死にやれ」と。
そして数々の言葉は、
「自分を変えられるのはおまえしかいないんだ!
おまえは変わるためにここに来たんじゃないのか!?
おまえが変わりたいなら、変えるべきはそこなんだ!
頼むから気付け!」
そういう叫びだったことに、ようやく気付きました。
手を変え品を変え、ひたすら"違う価値観"をわたしの前に置く"だけ"の時間だったのです。
そう考えると、普段からわたしに理不尽な怒りをぶつけていた上司と決定的に違う点として、どう考えても師匠にメリットがない行為だということにも思い当たります。
師匠はほとんど365日、朝も夜もなく働きづくめのようなひとで、さらりと「自分みたいな凡人がなにかを成したいなら、努力するしかない」と言ってのけるようなひとです。そんなひとがひと晩を費やしたことの意味を考えることもなく、わたしは半ばふてくされていたのです。
そしてこのひとは、特別わたしに対してだけこういう行動を取るわけじゃない、と確信します。相手にとってそれが必要だと考えれば、なりふり構わず同じことをする。
相手が師匠を悪しざまに思うリスクもあるのに(むしろそのほうが高いかもしれないのに)、躊躇のかけらもない。
そこに私心が全く感じられなかったことに、渦中にいたわたしは気付けていませんでした。
前回も書いたとおり、わたしは師匠を正直、異常なひとだと思っています。
ですが、これほどまともなひとも見たことがありません。異常なほど自分の信念や言動に忠実……いわばまとも過ぎて異常です。
こんなひとが実在するのか、と思いました。
そして心から反省しました。そんなひとに教えを乞うと決めたのは誰でもないわたし自身なのに、なんて覚悟が足りなかったんだろう、と。
だからと言って、わたしのような自分に甘い人間が一夜にして変われるはずもなく、師匠のようになるなんてことは口が裂けても言えませんが。
少なくとも「こんな異常なひとにはついていけない」と距離を置くのではなく、
「このひとからもっと学びたい」
「わたしは、変わりたい」
そう思う程度には心を入れ替えました。
せめて自分の損得とか苦楽よりも、どうしたらチームや世の中が良くなるのかを、"本気で"考えたいと思ったのです。
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