私はある人に、「あなたのことを何とも思っていない。無関心だ」と言われたことがある。
その人は、クリスチャンだった。
信頼していた人だったからこそ、裏切られた悲しみは大きかった。
「鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言う」とペトロに語った時のイエス様の気持ちを、少しだけれど理解できた瞬間だった。
「愛の反対は、無関心である」と言う。
では、無関心とは何なのか?
相手を理解しようとしないこと。
相手を知ろうともしないこと。
相手が何を大切にし、どのように生きようとしているのか関心がないこと。
愛とはその逆である。
相手を理解し、知ること。
何に悩み、苦しみ、何を大切にして生きているかを、こちらが積極的に歩み寄り、関心を示すこと。
それが愛である。
私は34歳の時、放送大学に入学した。
理由は、高校生の頃、心の病で大学受験に挑戦できず、大学生活を経験したことがなかったから。
父母が私のために、障害年金の受給を進めてくれていたおかげもある。
その資金を、放送大学での授業に使うことに決めたのだ。
それから私は、一生学び続けてみせる、と心に誓った。
心理学や哲学、地球や宇宙のこと、世界史や日本史、キリスト教のこと・・・。
学び始めてみると、いかに自分が何も知らなかったかが理解できた。
地球はいつどのように誕生したのか。
宇宙の構造はどうなっているのか。
人間はどんな歴史を歩んできたのか。
どのような争いを繰り返し、互いに傷つけあってきたのか。
イエス様が示す愛とは何なのか・・・?
など、さまざまな問いが生まれてきた。
それらを理解するためには、学問しかない。
学ぶことでしか、理解できないし、知ることもできない。
学ぶ行為こそが、イエス様を知るための入り口になるのだ。
学びは、私たちにたくさんの知識や、教養を与えてくれる。
学ぶことを通して、知ること、理解することの技術が身についていく。
その積み重ねによって、相手を理解し、知ろうとする力を私たちは発見できるのだ。
きっと、その先で、イエス様の本当の愛について知ることができるだろう。
愛の反対が無関心ならば、相手を知ること、理解しようとすることが愛だ。
イエス様は、どのような人の苦しみや悲しみも理解できたお方だった。
決して、分け隔てなく。
私も、教会に通っている時、兄弟姉妹の思いやりのない行動や言葉にたくさん傷つくことがあった。
けれども、イエス様は、その時の私の気持ちも、彼らの思いも理解してくださっていたであろう。
どちらの思いが正しいか正しくないか、ではなく、きっと神様の視点には大きな愛や理解しか映らないのかもしれない。
だからこそ、私は学び続けたい。
この地球のこと、人間の歴史のこと。
イエス様のこと。
知ることが、イエス様への恩返しであると信じ続けて。
イエス様に「ありがとう、私のために」と笑顔になってもらいたい。
だから私は、学ぶことを止めない。
ずっと学び続けていく。
イエス様の胸に飛び込むその時まで。
さおり♬