見出し画像

映画館や本屋を想う

私がまだ学生だった頃、映画館は入替制でも定員制でもなかった。時に席にあぶれたひとたちが階段に座って観たりもしたし、時に一日中ずっと席に座って同じ映画を延々繰り返し観たりもできた。そんな映画館という場所はだから、貧乏学生の私にとって、最高の楽しみの場所だった。
友達と連れ立ってでも、親に連れられてでもなく、気づけば私はひとりきりで映画館に毎日通うようになった。バイト代はだからほとんど、本代か映画代に費やした。
レオス・カラックス監督の「汚れた血」やビクトル・エリセ監督の「ミツバチのささやき」を観た時の衝撃、涙が止まらなかったルイ・マル監督の「さよなら子供たち」、あまりに圧倒され初回上映から最終上映までつまり一日中座席から立てず観続けていたテオ・アンゲロプロス監督の「霧の中の風景」、メナハム・ゴーラン監督の「ハンナ・セネシュ」は大好きな女優マルーシュカ・デートメルスが出演していて、レイトショーだったけれど何日も通い詰めたりもした。挙げだすときりがない。
映画館でいつか働けたらいいのになぁと、映画館好きな少女は憧れると同時に、あまりに憧れが強すぎて、そんな神聖な場で自分が働くなんてとんでもない、と思いつめていたりもした。
それは自分が犯罪被害に遭い映画館に通うことができなくなってしまうまで、ほぼ毎日続いた。懐かしい、日々。

今、コロナの為に非常事態宣言が出され、上質な小さな映画館が追いやられているという。もちろん他にも、追いやられている分野はある。けれど私にとってとりわけ、映画館、という空間は、なくなってほしくない大事な大事な存在で。だから正直、慌てている。

犯罪被害に遭って以来、暗闇で密室に閉じ込められることに耐えられなくなり、映画館から遠のかざるをえなくなった。悔しくて悔しくて、何度もトライしたけれども、そのたび、気を失ったりパニックを起こしたりして、結局映画館から立ち去らなければならなくて。そのたび唇噛みしめながらひとり心の中、泣いた。
そんな私にとって、いつかまた映画館に通うのだ、という思いは強く強くある。いつかきっと、と、確かにまだPTSDは治っても何もいないけれども、それでも私は諦めてはいないのだ。また映画館に通う日々を取り戻すことを諦めてなんていないのだ。
特に、大きなシアターではなく、たとえば横浜のジャック&ベティとかシネ・マリンだとか、そういう、小さな小さな映画館にこそ私はまた行きたいと願っている。
なのに。
そうした小さな映画館ほど今、苦境に立たされているという。
悲しすぎる。

昔、伊勢佐木町の片隅に関内アカデミー劇場という映画館がまだ在った頃、そこに行けば会えるおじさんがいた。午後一番の上映会にたいていそのおじさんは居て。いつの間にか顔見知りになって会釈したりするようになった。ある時おじさんが「この映画監督さん、僕大好きなんですよ」とぼそぼそっと言いながら私の脇を過ぎていったことがあって。それから時々、映画の感想を上映後、言葉少なに語り合うようになった。
おじさんが言う。映画館というのは人生そのものだ、って。生きられなかった人生、夢見た人生、憧れた人生、諦めた人生、そうした色とりどりの人生が映画を通して体験できる、映画館はそんな場所なんですよね。
映画館が人生そのものだなんて私はそれまで考えたことはなかった。だからおじさんの言葉はすうっと私の中に入ってきて、ことん、と居座った。と同時に、おじさんの人生というのはどんな人生なのだろうなあと、ぼんやり思ったのを今も覚えている。

レオス・カラックス監督もそういえば、こんな言葉をかつて残している。「映画は、ひとが十年かかって気づくことを、たったの一瞬で気づかせる可能性をもった代物」だと。確かに私は、映画や本を通して、いったい何度、その「一瞬で気づく」体験を得ただろう。そう考えると、本や映画がない人生なんて、ぞっとする。

古書店を含む本屋も映画館も、今あっぷあっぷだという。何とか応援できないかとあれこれ模索している。それは誰の為でもない私自身の為だ。私がいつか、また、普通に映画館に通い映画を楽しめるようになるんだという夢や希望を、失ってしまわないために。

https://motion-gallery.net/projects/minitheateraid

http://savethecinema.jp/

https://www.littlestaff.jp/

ここから先は

0字

よかったらサポートお願いいたします。いただいたサポートは、写真家および言葉紡ぎ屋としての活動費あるいは私の一息つくための珈琲代として使わせていただきます・・・!