秘めごとを書く女
お墓で放尿する女性を見た西城秀樹が恋に落ちると言う描写が「寺内貫太郎一家」というドラマの中にあり、向田邦子のエロスの表現に打ちのめされたと『光る君へ』の脚本家大石静氏が語っていた。彼女は向田邦子をこよなく敬愛している。それを語っているドキュメンタリーで、別の向田邦子のドラマでは桃井かおりが、マンションの隣の住人の情事の声を聴き、欲情する描写が描かれている。行為中に山手線?の駅の名前を淡々と連呼する男性の声を聴いて息を荒げる桃井かおりの表情は生々しくて、昔のテレビ番組は許された表現の幅が広かったのだなあと驚いてしまった。
『光る君へ』はNHKの大河ドラマとして放送されているけれど、例えば花山天皇の房事についての発言や描写など、表現としては直接的ではないのに、かなり過激で界隈はざわめいている。オープニング映像もシェヘラザードを思わせる官能的で妖艶な演出で、源氏物語はたしかに千夜一夜の寝物語だったのだなと改めて思わせる。これからも後宮やそれぞれの恋愛や房事をめぐってさまざまな描写がなされるだろうと期待されているなかで、脚本家大石静さんの向田邦子リスペクト発言を思い出し、さもありなんと納得した。
向田邦子が平安時代にいたとしたらどうだろう?エッセイの名手である彼女は清少納言タイプ?とも思わせるのだけど、情念の世界を物語に丁寧に落とし込む姿は紫式部に通じるかもしれない。紫式部と向田邦子には共通点がある。
ふたりとも秘めた恋をしているのだ。
紫式部と藤原道長との関係はいろいろと憶測されている。紫式部日記に描かれた男性の訪れについて学生時代の私は「紫さんの妄想でしょw」笑っていた。ただ、この年になると、わざわざ紙の貴重な時代に、人から読まれる可能性のある日記に書くだろうか?と思う。おそらく紫さんがこれを記した理由は二つ考えられる。
①道長との噂があったため、潔癖であるとのアピール
②道長と本当はそういうい関係にあったため、カモフラージュ
私は後者ではないかと踏んでいる。潔癖だったら何もいう必要がないし、わざわざ書いて蒸し返すこともないからだ。
おそらく何かしらあったのだろう。それはモラハラ、パワハラの性加害の様相もあったたかもしれないし、紫式部が道長に憧れていたのかもしれないし、詠む才能が恋愛の魅力にもなっていた時代、道長が紫さんに惚れ込んだのかもしれない。そもそも恋にはどこからしらいつも暴力の香りもつきまとう。
そして源氏物語は、決して色男の恋愛カタログではなく、恋の最高の絶頂の喜びと、地獄を思わせるほどの苦しみを書きつくしている。そこに身分や男女の立場の違いや政治が絡みつき、複雑な様相を見せている。少なくとも恋を知らないヴァージンが書けるモノではないし、一人しか男性を知らない未亡人にも難しいと思う。複雑な恋を経験したものでないと達っすることができない境地の心境が細やかに描かれている。
そして、なにより、決定的なことは書かれていない。源氏と藤壺の宮の受胎が疑われる一夜や、紫の上との初夜も、のちの会話や状況によって表現されている。
そんな描写をする紫さんが、自分の情事をあからさまに書くわけがない。
エロスは匂わせ、察し、悟らせ、感じさせるもの。
大石静さんもこのあたりから広く想像の翼を広げていくのだろう。
向田邦子も独身を貫ぬき、エッセイ内には女の独り身の寂しさや子どもを持たなかったことへの小さな後悔が書かれている。随筆家としての後輩で、向田邦子を崇拝している山口瞳氏はおそらく弟分としても彼女に可愛がられただろうけれど、喫茶店かどこかで、向田邦子をヴァージン作家とからかっかたときに「私、男いたことあるのよ」とサラリと言われている。
のちに「向田邦子の恋文」の中で知られるカメラマンの男性のことと思われる。いくつかの随筆の中で、たしかに彼のことを匂わせてる箇所がある。そして、なにより、彼女の作品を読めば、彼女が恋にのめりこみ、苦しみ、愛に悩んだ経験あるのは一目瞭然だ。
多くの恋をする必要はない。ただひとつだけでも、真正面から向き合い、本気で愛し愛された経験に才能がプラスされれば、永遠の傑作ができる。身分や人としての規範や時代を越えて、多くの悩める繊細な心に届くのだ。
向田邦子を敬愛する大石静氏がこれから紫式部の秘められた恋をどう描くか。
恋を起点に人間社会や男女それぞれの苦しみをどう書いていくか。
美しく平和なだけではないセックス&バイオレンスの平安時代に心をときめかせている。