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神秘のたまり醤油が、弁当の味玉になるまで
この夏、生まれて始めて、たまり醤油の「汲み掛け」を見学しました。
汲みかけは、たまり醤油特有の工程。たまり醤油は一般的な濃口醤油に比べて仕込み水の割合が少ないため、攪拌する代わりに、仕込んだ諸味に重石をのせて液体を対流させます。木桶の中には筒が入っており、底部に溜まった液体が筒を通って上がってくる仕組み。それを、蔵の職人が柄杓ですくって重石の上からかける。この作業が「汲みかけ」と呼ばれるものです。
見学させてもらったのは、愛知県武豊町にあるたまり醤油・豆味噌の醸造元「中定商店」。6代目当主の中川安憲さん自ら実演してくださいました。大人の背丈以上ある大きな木桶に、はしごがかけられており、それにのぼって作業を行います。
ライトに照らされた木桶の中を覗き込むと、漆黒の液体を満々とたたえた木桶に、いくつもの重石が浮かぶ、不思議な浮遊感に包まれます。そこへ、中川さんが柄杓で液体をかけるたび、重石が艶やかに輝いて。まるで、厳かな神事を見守るような感覚。底の見えない深い深い世界へ、思わず自分も吸い込まれてしまいそうで、今もその光景は脳裏に焼き付いています。
さて、そんな神秘の汲みかけ体験から早2か月。
わが家の冷蔵庫には、取材後に購入した「中定商店」さんのたまり醤油があります。料理やかけしょうゆとして何度か使ってみたものの、果たしてこの使い方でよいのだろうか、たまりのよさを存分に生かせているのだろうかと、どこか自信を持てない自分がいました。
本当はもっとお近づきになりたいのに、距離感を測りかねてしまう。何も考えず突っ走ったら失敗そうだし、かといってこのまま手をこまねいていては、たまりのフレッシュさが失われていくだけ。
しかし、私にも家庭というものがあるのです。自分だけならまだしも、家族から「いつもの味付けのほうがいい」とでも言われた日には、お互いの関係(私とたまり)の修復が難しくなるのは、目に見えているではないですか。
そんなとき、ふと思い出したのです。中川さんから教えてもらった「味玉」のことを。
作り方はとっても簡単で、半熟や固ゆでなど、お好みの加減で茹で卵をつくり、たまり醤油に漬けるだけ。とはいえ、そこらの味玉とは格が違う。3年かけてようやく完成する、木桶仕込みの天然醸造です。たまり醤油なら少量で玉子にしっかり味が染み込み、うまみのドリップのような味わいは、ごはんが進むこと間違いなし。
遠いと思っていた存在が、顔なじみのご近所さんくらいの距離にまで、一気に縮まった瞬間でした。
そうだ、明日の弁当のおかずに、今日から味玉を仕込んでおこう。漬けたしょうゆが余るだろうから、海苔につけてのり弁にすればいい。いつものプラスチック弁当箱では味気ないから、お気に入りの春慶塗のお弁当箱に入れちゃおう!
遠足の前の夜みたいに、にわかにうきうきが止まらない。
神々しくカリスマ性にあふれたアイドルも、ステージをおりれば一人の人間。きっと、たまりだって特別扱いしてほしかったわけじゃない。
勝手な妄想を頭の中でひとしきり繰り広げたら、スッと肩の力が抜けた気がしました。
今日からもっと、たまり醤油と仲良くなれそうな気がしています。