【文献案内】ウィトゲンシュタイン哲学のバックボーンを望む——19世紀末ウィーンの知識人
最終更新日:2023/7/6
ウィトゲンシュタイン哲学の背景と言えば、フレーゲやラッセルなど、初期分析哲学と呼ばれる人たちの哲学がよく連想されます。しかし、ウィーンの知識人や文化・学問からの影響(また反対にそれら「への」影響)も無視できません。この文献リストは、特に後者からの/への影響にスポットを当てるためのものです。ウィトゲンシュタインの遺稿には、前期・中期・後期すべての区分において、ウィーンの学問からの影響が見受けられます。ごく一部を取り上げるとしても、前期ウィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』に登場する「論理空間」という言葉は、ボルツマンに由来すると言われています。前期-中期ウィトゲンシュタインの遺稿『哲学的考察』には、マッハの空間概念からの影響が見られます。さらに、晩期ウィトゲンシュタインのいわゆる「心理学の哲学」と呼ばれる一群の考察には、ブレンターノの弟子・エーレンフェルスに端を発するゲシュタルト心理学(直接的にはケーラー)への反応という側面が認められます。
また、この文献リストは、ウィトゲンシュタイン哲学をいかなる背景のもとに眺めるかという問題を、皆さんにも楽しんでいただきたい、という野心も持っています。
ウィトゲンシュタイン自身は、亡くなる際にあまり私物を(書籍含め)持っておらず、また、遺稿にも細かい参考文献表をつけてくれていません。それゆえ、彼がどんな言説からどんな影響を受けたかを考えるとき、私たちは、彼の遺稿そのものに向かうことになります。つまり、ウィトゲンシュタイン哲学にいかなる背景を望むかという問い自体が、ウィトゲンシュタイン哲学をどのようなこととして捉えるかという問題に直結しているのです。
こうした考え——ウィトゲンシュタイン哲学を生成させる背景を立ち上げるということ—–は、読者にとって重荷と感じられるかもしれません。しかし、この考えは、それぞれの背景のもとに成り立つウィトゲンシュタイン像を認める(それぞれの立ち上げ方に個性を認めようとする)ものなのです。読み手が引き受けることを活かしながらテクストを扱うことに役立ちます。同時に、措定のない中立的な読みがあるという抑圧的な考えを退けます。背景と同時にウィトゲンシュタイン哲学そのものを立ち上げる考えは、特定の取り扱い方のもとに生成するウィトゲンシュタイン哲学に地位を与え、かつ、他のありよう(他の引き受け方・取り扱い方)を排除しないための考え方なのです。
お断りと注意点
書誌情報の見方:日本語文献の「」は論文名、『』は書名です。外国語文献の“”は論文名です。書名と雑誌名は本来イタリックにすべきですが、noteの書式にイタリックがなかったため、特に何の印も付けていません。
書誌情報のあとに添えた括弧内の記述(アスタリスク*つき)は、なぜここで取り上げたかという槇野の補足です。
作成者は、できる限りたくさんの・関連ある文献をリストアップしようと心がけましたが、あらゆる資料を取り上げることはできません。もし重要と思われる文献で、本文献表に挙げられていないと思われるものがありましたら、コメント欄を利用するか、morerain19@gmail.comまでお知らせください。お名前にクレジットをつけた上で、文献を追加させていただきます。
本文献表は、基本的にウィトゲンシュタイン「へ」影響を与えた学問を取り上げるものですが、ウィトゲンシュタイン「から」影響を受けたウィーン学団に関する文献も、ウィトゲンシュタインとウィーン文化との関わりという観点から、取り上げています。
ウィトゲンシュタイン研究は主として英語で行われており、ここで紹介する外国語文献も基本的に英語の文献のみを取り上げています。ウィトゲンシュタインとウィーンの知識人というテーマからしてドイツ語文献にもあたることが望ましいでしょうが、時間と作成者の能力との兼ね合いから、今回は外国語の文献の中からは英語で書かれたものだけをピックアップしました。(英語の文献の中から、ウィーン文化と関連ある論文を探すだけでも一定の労力がかかったという意味です。)ドイツ語の文献に関しては、今後の課題とさせてください。
人生と哲学との関係について
Klagge, James C. (ed.), 2001, Wittgenstein: Biography and Philosophy, Cambridge: Cambridge University Press.(*ウィトゲンシュタインの人生と哲学との関係について考察した論文集。哲学をその「背景」とともに立ち上げるという方法について考えるヒント。)
網羅的な伝記・事典
山本信、黒崎宏編(1987)、『ウィトゲンシュタイン小事典』、大修館書店。
R. モンク著、岡田雅勝訳(1994)、『ウィトゲンシュタイン:天才の責務』、みすず書房。(*日本語で読める伝記の中では最も包括的で詳しい。邦訳では二段組の上下巻なので凄まじい量。これを原著の出版から4年で邦訳し出版した訳者・出版社も凄まじい。)
B. マクギネス著、藤本隆志、今井道夫、宇都宮輝夫、高橋要訳(1994)、『ウィトゲンシュタイン評伝:若き日のルートヴィヒ 1889-1921』、法政大学出版局。
ウィトゲンシュタイン「へ」の影響
世紀末ウィーンの知識人と『論理哲学論考』
丘澤静也(1978)、「書評・現代思想 ウィトゲンシュタインのウィーン」、『現代思想』、6(7)、pp. 210-213。
岡田雅勝(2003)、「世紀末ウィーンとウィトゲンシュタイン」、『哲学』、北海道大学哲学会、(39)、pp. 57-72。(*『論考』を、世紀末ウィーンの芸術家の思想と連続するものとして捉える研究。著者は特に、「作品の美的形式と道徳的内容とを全く同一視し、作品の美的ならびに道徳的価値が言語によって表現される」(p. 65)と言われる「クラウス的精神」を重視している。)
S. トゥールミン、A.ジャニク著、藤村龍雄訳(2001)、『ウィトゲンシュタインのウィーン』、平凡社(TBSブリタニカ1978年刊の改訂版)。(*網羅的であり、人名索引としても使えるので、持っておくのがおすすめ。書評に、丘澤静也(1978)がある。)
水上藤悦(2011)、「ウィトゲンシュタインと世紀末ウィーン」、『ウィトゲンシュタイン読本』(新装版)、飯田隆編、法政大学出版局。(*クラウス、ヴァイニンガー、マウトナーが取り上げられている。)
D. ラカプラ著、加藤泰史訳(1985)、「『ウィトゲンシュタインのウィーン』と『論理哲学論考』」、『現代思想』、13(14)、pp. 140-164。
クラウスとウィトゲンシュタイン
古田徹也(2018)、『言葉の魂の哲学』、講談社。
Garver, Newton (2003), “The “Silence” of Wittgenstein and Kraus”, Writing the Austrian Traditions: Relations between Philosophy and Literature, Wolfgang Huemer and Marc-Oliver Schuster (eds), Edmonton, Alberta: Wirth-Institute for Austrian and Central European Studies, pp. 67-79.
ヴァイニンガー(『性と性格』)とウィトゲンシュタイン
ヴァイニンガー自身の著作には、明確な人種差別と性差別が含まれます。ご注意ください。
Janik, Allan (1985), Essays on Wittgenstein and Weininger, Amsterdam: Rodopi.
Smith, Barry (1984), “Weininger und Wittgenstein”, Teoria, Vol.2, pp. 156–165.
Stern, David G. & Szabados, Béla (eds.) (2004), Wittgenstein reads Weininger, Cambridge University Press.
シュペングラー(『西洋の没落』)とウィトゲンシュタイン
James C. Klagge (2010), Wittgenstein in Exile, Cambridge, MA.: MIT Press.(*ウィトゲンシュタイン哲学を、20世紀の哲学の中に位置づけをもたず、19世紀のシュペングラー的文化から追放されたまま居場所をもたない流浪の思想として取り扱う著作。)
マッハ(物理学)とウィトゲンシュタイン
木田元(2015)、『マッハとニーチェ:世紀転換期思想史』、講談社。(*第11回「ウィトゲンシュタイン/ウィーン学団/ケルゼン」において、ウィトゲンシュタインのマッハ観が論じられている。)
滝浦静雄(1986)、「現代哲学への序論」、『新・岩波講座 哲学 16』、大森荘蔵ほか編、岩波書店。(*両者の関係について明示的に論じたものではないが、マッハの世界観について論述がある。)
Preston, John M. (2019), “Mach, Wittgenstein, Science and Logic”, Ernst Mach – Life, Work, Influence, Friedrich Stadler ed., Springer.
Visser, Henk (1982), “Wittgenstein’s Debt to Mach’s Popular Scientific Lectures”, Mind, 91(361), pp. 102-105.
ボルツマン(物理学)とウィトゲンシュタイン
Preston, John M. (2017), “Wittgenstein, Hertz, and Boltzmann”, A Companion to Wittgenstein, Glock, Hans-Johann and John Hyman (eds.), Hoboken, N.J.: Wiley.
Sterrett, Susan (2005), Wittgenstein Flies a Kite: A Story of Wings and Models of the World, London: Penguin Books (Pi Press).(*初期20世紀航空学との関係から『論考』を読む試み。特にウィーンの知識人としては、ボルツマンが取り上げられている。)
Visser, Henk (1999), “Boltzmann and Wittgenstein or How Pictures Became Linguistic”, Synthese, 119, pp. 135-156.
稲葉肇(2012)、「<翻訳> L・ボルツマン 力学の諸原理について」、『科学哲学科学史研究』、6巻、pp. 121-50.(*比較研究ではなくボルツマンの邦訳)
フロイト(精神分析)とウィトゲンシュタイン
J. ブーヴレス著、中川雄一訳(1997)、『ウィトゲンシュタインからフロイトへ:哲学・神話・疑似科学』、国文社。
J. M. ヒートン著、土平紀子訳(2004)、『ウィトゲンシュタインと精神分析』、岩波書店。(*フロイトからの影響について論じるというより、精神分析の枠組みを使ってウィトゲンシュタイン哲学を論じるという趣旨の本。)
McGuiness, Brian (1982), “Freud and Wittgenstein”, Wittgenstein and his Times, Brian McGuiness (ed.), Oxford: Basil Blackwell.
ケーラー(ゲシュタルト心理学)とウィトゲンシュタイン
米澤克夫(2003)、「ウィトゲンシュタイン哲学の発展にゲシュタルト心理学はどのような意味を持ったのか」、『帝京大学文学部教育学科紀要』、28号。
Benjafield, John G. (2008), “Revisiting Wittgenstein on Köhler and Gestalt psychology”, The History of the Behavioral Sciences, 44(2), pp. 99-118.(*Pastore 1991への反論となっている。)
Eilan, Naomi (2013), “On the Paradox of Gestalt Switches: Wittgenstein’s Response to Kohler”, Journal for the History of Analytic Philosophy, 2(3), pp. 1-21.
Pastore, Nicholas (1991), “Wittgenstein on Köhler and Gestalt psychology: A critique”, The History of the Behavioral Sciences, 27(4), pp. 341-351.(*反論として、Benjafield 2008がある。)
「オーストリア哲学」という括りの中で見るウィトゲンシュタイン
島崎隆(2000)、『ウィーン発の哲学:文化・教育・思想』、未來社。
——(2017)、『《オーストリア哲学》の独自性と哲学者群像:ドイツ哲学との対立から融合へ』、創風社。
ペーター・カムピツ著、針生清人監訳(1988)、『仮象と現実のはざまで : オーストリア哲学小史』、富士書店。
ルドルフ・ハラー著、林泰成訳(1995)、『ウィトゲンシュタイン研究:ウィトゲンシュタインとオーストリア哲学』、晃洋書房。
オーストリア・モダニズムの一部としてのウィトゲンシュタイン
最近活発になってきたテーマです。
Fasula, Pierre (2017), “Wittgenstein, Musil and the Austrian Modernism”, Understanding Wittgenstein, Understanding Modernism, Matar, Anat (ed.), London: Bloomsbury Academic.
LeMahieu, Michael, Zumhagen-Yekplé, Karen (2017), Wittgenstein and Modernism, University of Chicago Press.
Anat Matar (2017), Understanding Wittgenstein, Understanding Modernism, Bloomsbury Publishing.
Schuman, Rebecca (2015), Kafka and Wittgenstein: The Case for an Analytic Modernism, Northwestern University Press.
Vinten, Robert (2021), “Theolologicophilolological Investigations: Is Wittgenstein’s Tractatus a Modernist Work?”, Philosophical Investigations 45 (3):274-296.
Ware, Ben (2013), “Wittgenstein, Modernity and the Critique of Modernism”, Textual Practice 27 (3):187-205.
Ware, Ben (2015), Dialectic of the Ladder: Wittgenstein, the Tractatus and Modernism, Bloomsbury Academic.
ウィトゲンシュタインに影響を与えたとされるテオドール・ヘッカーについて
藤野寛(2016)、『二十世紀のキルケゴール?—テオドールヘッカーとは何者か』、キェルケゴール研究第14号、pp. 1-20。
家族・親族とウィトゲンシュタインとの関係について
A. ウォー著、塩原通緒訳(2010)、『ウィトゲンシュタイン家の人びと:闘う家族』、中央公論新社。(*2021年に文庫が出た。)
F. ハイエク著、西山千明監修(2009)、「遠縁の従兄ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの思い出」、『ハイエク全集』第2期 第7巻、春秋社。(*ウィトゲンシュタインよりも10歳年下のF・ハイエクによる、ウィトゲンシュタインの短い人物伝。ハイエクとウィトゲンシュタインとの絶妙な距離感がうかがえる。ハイエクはウィトゲンシュタインに対しかなり気を使って接していたようであり、ウィトゲンシュタインもそんなハイエクをある程度気に入っていたように見える。研究上興味深いのは、ハイエクがウィトゲンシュタインの情熱について語った次の一文である。「真実へのあくなき追求は、私がまさにそのなかで活動をはじめた純粋ユダヤ人と純粋非ユダヤ人のあいだに位置する境界的な知識人グループ特性にほとんどなっていた」(p. 274)。これは、当時のウィーンの知識人のアイデンティティを知るヒントになりそうに見える。)
B. マクギネス著、藤本隆志、今井道夫、宇都宮輝夫、高橋要訳(1994)、『ウィトゲンシュタイン評伝―若き日のルートヴィヒ1889—1921』、法政大学出版局。(*『論考』以前のウィトゲンシュタイン。ケンブリッジ時代の話が多いが、ウィトゲンシュタイン一家の話にもある程度の紙面が割かれている。また、ウィトゲンシュタインの工学研究時代についての記述があるのは珍しい。)
ほか
池内紀(1980)、「特集 ヴィトゲンシュタイン:ウィーンのヴィトゲンシュタイン 気むずかしい男——カフカとウィトゲンシュタイン」、『現代思想』、8(6)、pp. 145-151。(*ドイツ文学から見たウィトゲンシュタイン。)
谷徹(2005)、「科学、論理、経験」、『現代の哲学——西洋哲学史二千六百年の視野より』、哲学史研究会編、昭和堂、pp. 357-400。(*フッサール哲学から見た世紀末ウィーンの知識人たちの思想。ウィトゲンシュタインが比較対象としてちょこっと出てきます。)
Flowers, F. A Ⅲ. and Ian Ground (eds.), (2016), Portraits of Wittgenstein, London: Bloomsbury Academic. (*Adolf Hübner「ウィトゲンシュタインによる小学生のための辞書」など、非常にレアなトピックが扱われており、専門家の中でも特にバックグラウンドに関心がある人向けの二次文献。)
ウィトゲンシュタイン「から」の影響
L. ウィトゲンシュタイン著、黒崎宏、杖下隆英訳(1976)、『ウィトゲンシュタイン全集5:ウィトゲンシュタインとウィーン学団:倫理学講話』、大修館書店。(*ウィトゲンシュタインが述べたことのディクテーション。講義録と同じく、一次文献に準じた扱いを受けるテクスト。)
V. クラフト著、寺中平治訳(1990)、『ウィーン学団:論理実証主義の起源・現代哲学史への一章』、勁草書房。
W. シュテークミュラー著、竹尾治一郎、森匡史、藪木栄夫訳(1981)、『現代哲学の主潮流2:カルナップとウィーン学団、基礎論と現代の分析哲学、ウィトゲンシュタイン』、法政大学出版局。
Baker, Gordon. (1988), Wittgenstein, Frege, and the Vienna circle, Blackwell.
Hacker, Peter M. S., (1996), “The impact of the “Tractatus” - the Vienna Circle”, Wittgenstein’s Place in Twentieth-century Analytic Philosophy, Oxford: Blackwell. (*分析哲学の潮流にウィトゲンシュタインを位置づけようとする研究者から見た、『論考』のウィーン学団へのインパクトとはどのようなものか。)
Uebel, Thomas (2017), “Wittgenstein and the Vienna Circle”, A Companion to Wittgenstein, Glock, Hans-Johann and John Hyman (eds.), Hoboken, N.J.: Wiley.
Wittgenstein, Ludwig and Waismann, Friedrich (2013), The voices of Wittgenstein: the Vienna circle: original German texts and English translations, transcribed, edited and with an introduction by Gordon Baker ; translated by Gordon Baker, Routledge.(*ウィトゲンシュタインとヴァイスマンとの未完の共著。共著プロジェクトが放棄されたことや、ヴァイスマンの思想が反映されていることを重視する見方もあり、一次文献に準じた扱いをしてよいか判断の分かれるテクスト。)
Wright, James K. (2005), Schoenberg, Wittgenstein and the Vienna Circle, P. Lang.
ポパーとウィトゲンシュタイン
モラル・サイエンスクラブでウィトゲンシュタインがポパーに対してとった言動は、常軌を逸したハラスメントであったと言えます。ポパーはウィトゲンシュタインよりも一回り歳下の研究者でした。また、モラル・サイエンスクラブはウィトゲンシュタインに好意的な研究者たちで構成されており、ウィトゲンシュタインにとってはホーム、ポパーにとってはアウェイでした。こうした条件で行われた、肉体的危害を加えるようなウィトゲンシュタインの言動は許されるものではありません。この件は、「火かき棒事件」と呼ばれ、しばしばウィトゲンシュタインの奇人・変人エピソードとして面白おかしく消費されがちですが、そのような扱いは、ハラスメントへの反応としてふさわしくありません。
K. ポパー著、森博訳(1978)、『果てしなき探求:知的自伝』、岩波書店。
D. ルクール著、野崎次郎訳(1992)、『ポパーとウィトゲンシュタイン:ウィーン学団論理実証主義再考』、国文社。
最後にお願い
本記事はもともと、cunugiというサービスの一部として依頼を受け、提供する予定でした。しかし、それぞれの文献にコメントを付けて欲しいという先方の要求に応えることができず、記事の公開には至りませんでした。また、cunugiはサービス自体が終了してしまい、この記事を公開できるところがなくなってしまいました。よって、不十分なところもあるリストですが、ウィトゲンシュタインに関心のある方々の利益に寄与するところもあるだろうと思い、noteにて公開することにいたしました。
cunugiにて公開していれば有料記事として収入が得られたのですが、ここでは無料公開とします。ただし、私は研究費がなく、非常勤の給料では生活するにも不十分な収入しか得られません。もしこの記事が気に入った方は、幾らかでもサポートしていただけますと幸いです。
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