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禅の道(17)全てと共に生きる道

道元禅師の正法眼蔵「現成公案」の以下の文章は、とくに有名ですが、これを私なりに解説してみます。


仏道をならう、というは、自己をならうなり。

正法眼蔵「現成公案」のごく一部抜粋

現代語訳: 「仏道を学ぶとは、自分自身を学ぶことです。」

解説: 仏道を学ぶということは、ただ知識や教えを外から得るだけでなく、自分の心と向き合い、自分の内側を深く見つめることです。仏の教えを学ぶというのは、自分が本当にどんな存在で、何を感じ、どう生きているのかを理解することから始まります。


自己をならう、というは、自己をわするるなり。

正法眼蔵「現成公案」のごく一部抜粋

現代語訳: 「自分自身を学ぶというのは、自分を忘れることです。」

解説: 自分を学んでいくと、次第に「自分とは何か」という固定観念や執着が薄れていきます。「自分」にとらわれなくなると、他者や万物とのつながりや、一体感が見えてきます。自分のエゴや思い込みを手放し、自分を忘れることによって、広い視点で世界を見られるようになるのです。


自己をわするる、というは、万法に証せらるるなり。

正法眼蔵「現成公案」のごく一部抜粋

現代語訳: 「自分を忘れるということは、宇宙の真理によって自分が証明されることです。」

解説: 「自己を忘れる」と、目の前に広がるすべての事物(万法)が自分に直接働きかけ、自分がその中で生きているということを強く実感するようになります。自分だけが存在しているのではなく、世界そのものに包まれ、その一部として「証せられる」ことで、他者や自然と一体となって生きる実感が湧いてくるのです。


万法に証せらるる、というは、自己の身心、および、他己の身心をして、脱落せしむるなり。

正法眼蔵「現成公案」のごく一部抜粋

現代語訳: 「宇宙の真理に自分が証されるということは、自分と他人の心と体の境界を超え、それらが解放されることです。」

解説: 最後に、万法に証せられることで、私たちは自分と他人との境界が溶け、身も心も分け隔てがないと感じるようになります。自分と他人の区別を越えて、「私」と「他人」が脱落し、すべてが一つの大きな生命の流れの中に存在しているという真理に目覚めるのです。


まとめ

道元禅師のこの言葉は、仏道の修行が単なる自己鍛錬ではなく、自己を越えて宇宙や他者と一体となり、全てと共に生きる道であることを示しています。自分を超越していく過程で、他者とのつながりを深く実感し、自己も他者も解放されていく—これこそが道元禅師の仏道なのです。


見出し画像のマキノ町にある「メタセコイヤ並木道」を通り過ぎて、県道を国道161号線に向けてしばらく走ると、白い門が左手に見えてきます。そこから100mほど幅9mほどの私道を登ったところに念水庵が位置しています。はじめての方には少しわかりにくい場所です。

今は、カーナビがありますから住所を入れれば道案内されますが、昔は地図を片手に探し訪ねたものです。便利な時代になりました。バス停から歩いて5分の距離ですから携帯に電話していただくと迎えに参ります。同様に「禅の道」にも「道案内」が必要なのかもしれません。

このnoteがこ゚縁で「禅の道」にいささかでも興味を持っていただければ、望外のよろこびです。それというのも、このnoteを書き出してからおよそ300日近く連続投稿していますが、私のノートは絵日記のようなものだからです。小学生の夏休みの宿題と同じで、自由研究の一環です。

続けてこその道。どこに行き着くのか、自分で自分がとても楽しみです。人それぞれ楽しみから歩むわけです。歩いて歩いて歩いて。道端の石ころや名も知らぬ草花に目を向け、ふと気がつくと今までなんでもなかった景色が、音が、風や香りが、みんな自分だなぁと感じます。


ご覧頂き有難うございます。
念水庵

noterのアユミさんの昨日の記事を読んで「一期一会」を強く感じました。

この並木道を抜けると「念水庵」まで車で3分です。
ことしは紅葉が遅いですね。
昨日ようやく富士山が初冠雪だとか。
夏が長引いたせいでしょう。

メタセコイヤ並木道(11/7撮影)

道は続いてる・・・

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