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禅の道(25)髪を剃り、また髪を剃る

道元禅師の正法眼蔵「法華転法華」の巻に関して述べる場合、全体のテーマと禅的な視点を考慮する必要があります。この巻では、法華経の教えが仏道修行において如何に実践的であるかを深く掘り下げています。「法華が転ずる」とは、単なる経典の学問的理解に留まらず、修行者自身の生きた実践によって法が動き、変化し、生命そのものと一体となることを意味します。

これ、出家、修道を感喜するなり。

ただ鬢髪をそる、なお、好事なり。

かみをそり、また、かみをそる、これ、真出家児なり。

今日の出家は、従来の転、法華、如是力の如是果報なり。

いまの法華、かならず、法華の法華果あらん。

釈迦の法華にあらず、諸仏の法華にあらず、法華の法華なり。

ひごろの転、法華は、如是相も不覚不知にかかれり。

しかあれども、いまの法華、さらに、不識、不会にあらわる。

昔時も出息入息なり、今時も出息入息なり。

これを妙難思の法華と保任すべし。

正法眼蔵「法華転法華」一部抜粋引用

現代語訳

「これこそ、出家し修行することの喜びである。ただ髪を剃るという行為ですら、すばらしいことだ。髪を剃り、また繰り返し髪を剃るという行為こそが、真の出家のあり方である。

今日この瞬間の出家は、これまでに繰り返し続けてきた『転ずる法華経』の力と、それに伴う結果としての如実な果報である。
今の『法華経』には、必ず『法華経』としての独自の結果があるだろう。
それは釈迦の説いた法華経ではなく、諸仏の法華経でもない。ただただ『法華経』としての『法華経』であるのだ。

過去において『転ずる法華経』は、如是相(仏教の深い真理や現象のありよう)の正体を知ることなく転じてきた。しかし、今の『法華経』は、それをただ知らないままや分からないままで終わるものではない。

昔も今も、息を吸い、息を吐くことに変わりはない。このことを、『深遠で理解を超える法華経』としてしっかりと実感し、保持すべきである。」


解説

この文章では、禅の修行において「法華経」の教えがいかに生きたものであるかが語られています。以下、ポイントごとに解説します。

  1. 「髪を剃る」という行為の意味
    髪を剃るというのは、出家者の象徴的な行為であり、世俗を離れて仏道に生きる覚悟を示します。道元禅師は、髪を剃るという単純な行為ですら、すばらしいことだと述べ、それが繰り返されることで真の出家としての道が深まると語っています。この繰り返しが、修行の一環であり、日々の実践の重要性を強調しています。

  2. 「今日の出家」の位置づけ
    今日、つまり現在この瞬間における出家は、過去から続く「法華経」の力の積み重ねによって成り立っています。過去に培われた修行や行いが、現在の結果として現れ、それがまた新たな因を生むという仏教の因果の法則がここに述べられています。

  3. 「法華の法華」とは何か
    「釈迦の法華でもなく、諸仏の法華でもなく、ただ『法華の法華』である」という表現は、教えが特定の誰かのものではなく、それ自体として普遍的で独立しているということを示しています。これは禅の教えにも通じる、自立した真理そのものの表現と言えます。

  4. 息を吸い吐くことと法華経
    道元禅師は、日常的な呼吸の行為を通して法華経を感じるべきだと説いています。「昔も今も息を吸い吐くことは同じである」という表現は、修行の根本が日常生活の中にあることを強調しています。息の出入りに意識を向けることで、深遠な仏の教え(妙難思の法華経)を実感できると示唆しているのです。

  5. 「妙難思の法華」
    「妙難思(みょうなんし)」とは、「理解を超えた奥深さ」を意味します。法華経の教えは理屈を超えた体感的なものとして、自分の実践を通じてのみ味わえるものだということを示しています。


まとめ

この文章は、修行が過去の積み重ねによって現れる現在の姿であり、それがまた未来に続いていく連続性を説いています。そして、それを日々の行為の中で体得することの重要性が語られています。禅の修行はまさに「呼吸のように自然で日常的な中にある深遠な法華経」を生きることにあるのです。

正法眼蔵「法華転法華」の巻は、法華経の深遠な教えが単なる言葉や理論に留まるのではなく、修行者の生活と実践を通して動的に生きるものであることを示しています。ここで道元禅師は、法華経の教えが個々の修行者の行為と一体化し、言葉を超えた智慧として顕現する様を説いています。

法は我々の理解を超え、常に転じ、変化し続けています。その中で修行者は、自らが法を転ずる存在であることを自覚し、日々の実践を通じて法そのものとなるのです。この教えは、禅の修行においても中心的なテーマであり、「坐禅」や「作務」など、あらゆる実践の中に法の転じる力が働いていることを示唆しています。

結論として、この巻は、仏教の教えを単なる理論や信仰として受け取るのではなく、現実の中で法が生き生きと転ずる姿を悟り、実践することの重要性を伝えています。それは、道元禅師の言葉で申せば、「一切を道に生きる」ことであり、その道が私たち自身の生命を輝かせる根本であるといえるでしょう。


昨日は師匠と友人との三人で本日の「先住忌法要」(先代住職の23回忌)のための作務を終えてから食事を戴きました。ほどよい疲れでよく眠れました。まことに有難いことであります。先代様からの血縁(けちえん)は法脈と申しまして私の身心を流れる「仏法の血液」であります。

おそれながら今日のテーマは道元禅師のお言葉のなかで一番耳に残っている響きであります。「かみをそり、またかみをそる」。まさしく浄髪(じょうはつ)のたびに、この法華転法華の意味を体感いたします。剃りあがった頭を撫でながら、剃り残しがないか点検するのです。

自帰依佛 当願衆生 体解大道 発無上意
「自ら仏に帰依し奉る 当に願わくは衆生と共に、大道を体解して、無上意を発さん」は、「三帰礼文」の一部です。
この「体解大道」、大いなる道は体感による理解を必要といたします。

本日の法要で導師の侍者をつとめさせていただきます。ひさびさの役割でとても緊張しております。師匠が心配下さり、なんども「慣らし」という事前の練習をしてくれました。各自が自らの役割に徹することで全体の流れが決まります。事の重大性を意識すれば人の目など気にしておれない心境です。


ご覧いただき有難うございます。
念水庵

ああ緊張の瞬間!

たまには緊張も必要かもしれません。

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