禅の道(39)仏道
本来、「禅」という呼称を用いるべきではありません。以下に永平道元禅師(高祖承陽大師)が「正法眼蔵 仏道」の巻で述べられた一節を引用し、その真意を伝えます。しかしながら今や「禅」は広く一般に流布し、仏教の実践としての「仏道」として認知されております。「禅の道」をご理解いただく上での大前提をここに掲げておきます。
現代語訳
仏祖(仏教の祖師方)は代々、釈迦如来が魔訶迦葉尊者(大迦葉:釈迦十大弟子のひとり)に法を伝えたように、そしてまた釈迦如来が迦葉仏から法を受け継いだように、師と弟子の関係を通じて、今もなお法を受け継いでいます。このようにして、「正法眼蔵」という仏教の真髄は、直接的かつ正しく伝承されてきたのです。仏法の真髄を保つのは、この正しい伝承によるものだけです。
仏道の功徳や重要な要素は漏れることなく、すべてこの伝承によって伝わっています。インド(西天)から中国や日本(東地)へ、十万八千里を越えて仏法が伝わり、釈迦の時代から現代までおよそ2000年以上の歴史を経て受け継がれてきました。
しかしながら、これを学ばずに誤解した人々は、「仏祖が正しく伝えてきた正法眼蔵や涅槃妙心」を勝手に「禅宗」と呼び、祖師を「禅祖」、学ぶ者を「禅子」や「禅和子」などと称するようになりました。さらには「禅家流」などと自称する者まで現れました。こうした呼び名は誤った考え方に基づくものであり、仏道本来の教えから外れたものです。
インドから中国、日本に至るまで、古来から今日に至るまで、「禅宗」という呼び名は存在しませんでした。このような勝手な自称は、仏道を損ない、仏祖が望まない邪魔者であり、仏道の正しい伝統を破壊するものです。
解説
道元禅師はここで、仏法の正しい伝承について述べています。仏教の教えは、師から弟子へと正しく伝えられることで守られ、その本質が歪められることなく伝わってきたとしています。たとえば、釈尊が大迦葉に法を伝えたように、歴史を通じてその伝承が一貫して行われてきたということです。この「嫡嫡相承」(正統な継承)は、仏道の教えの核心を守る重要な仕組みとされています。
しかし、道元禅師は当時、仏道を「禅宗」として特別視する風潮に強い危機感を抱いていました。「禅」という言葉を使い、それを独自の宗派として扱うことは、仏教の本来の姿を損ねるものだと批判しています。禅師は、仏教は「禅宗」などと分派されるべきではなく、あくまでも「仏祖の正しい教え」として統一されるべきだと主張しています。
道元禅師がここで指摘するのは、表面的な名称や分類ではなく、仏道の核心を見失わないことの重要性です。仏道の真実は「正法眼蔵」にあり、それが師から弟子へと純粋に伝えられることで成り立つと述べています。
この文章は、仏教の本質を正しく学び、安易な解釈や勝手な呼称によってその本質を曇らせることのないようにという警鐘でもあります。
「禅の道」に限らず、あらゆる仏教の宗派はブッダ釈尊(釈迦如来)を離れて成り立ちません。それぞれが、それぞれの師から法(仏法)を受け継ぎ、またさらに法を弟子に伝えたのであります。結果、まったく違うような体をなしているように受け止められるかもしれません。
このnoteマガジンのタイトルも「禅の道」ですから、道元禅師にお叱りを受けるかもしれません。それはともかく、「禅」という漠然とした「道」を伝えているわけではありません。明確に定義された「仏教」を実践面からお伝えしたいというのが、私なりの本意であります。
「真理は実行するためにある」との宮崎奕保禅師(栴崖奕保大和尚:黙照天心禅師)のお言葉が今も耳に強く残っております。仏道とは、仏教を日日実践することであると固く信じています。その立位置から「禅の道」を書いております。どうかご理解いただきたく存じます。
私が在家のとき、今の師匠(本師)を通じて、宮崎禅師から在家得度をして戴いております。そのときに授けられた初心の弁道が「黙って真理を実行する」というひとことに集約されています。単に示すという意味での「禅」を今後も貫いていきたいとの「念い」であります。
ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道 合掌
にゃんすいあん日記9日目
きのう留守から戻ると、待ってたにゃんとばかりに、私の布団(もうボロボロ)の上から起き上がって、こちらに歩み寄ってきました。
一昨日設置した新しい方の大きいトイレは、ほとんど匂いません。さすが優れものです。もうこれだけにします。
一日分の愛情をこめて、たっぷり遊んであげました。というより私が遊んでもらっているようなものですが笑
とにかく仲良しのふたりです。さみしくなんかないと思います。ですが、今までキャリーの中でふたりで眠っていたのが、私が5日間だけいっしょに寝てあげた布団のうえで寝るようになったんです。親のにおいが付いているからでしょう。いじらしさに、じ~んとなりました。
私のコートの紐であそぶ、ここ。
私の足元で静かにあそぶ、ビリー。
おかえりなさい、ただいま。
おりこうさんやったね。
ヒトもネコも生きとし生きる
衆生とは、人と生きとし生けるもの全て。
生きているときはもちろん、その後も生き続けているのだ。
いままでのワンちゃんやネコちゃんのために、
ふと「供養塔」を立てたい、そう思った。