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祈りは無力だが、無力ゆえに祈る
妙なタイトルになってしまったけれど、僕は割とよく神社仏閣を巡ってお祈りをすることが多い。
宗教的な所属はなく、無宗教なのだけれども神社仏閣には良く行く。僕だけではなく、日本人にはこんな感じの人は結構多いだろう。
仕事をしている時やプライベートでは、神頼みや祈りをすることは一切なく、自分で行動して問題を解決するべきだと思っている。「現実的ですね」と冷ややかに言われることだってあるが、本当にそう思っているのだからしょうがない。
しかし、そんな僕も神社仏閣でお祈りをするのだ。矛盾している。
これは何でなのだろうかと考えてみると、仕事やプライベートでの課題は自ら行動して解決できることが大半だからなのかもしれない。
溜まっている仕事は手を動かすことや協力を仰ぐことで解決できるし、プライベートでも、例えば結婚相手を見つけたければ結婚相談所に行ったりマッチングアプリを使えば結婚できる(できないかもしれないが)のだ。
しかし人生において、そういう解決できることばかりが目の前にあるわけではない。様々な不条理が存在する。
例えば、遠い地で大きな災害が発生してしまった時、僕らにできることと言えばささやかな募金程度のことでしかない。他にも、知人が重い病気に罹ってしまった時など、医療者でもないただの会社員の自分ができることなど、たかが知れている。
こういう時には、自分ができることが何もないことが理由で、強い無力感に苛まれることになる。気持ちをどこにぶつければいいのかもわからない。
だからそういう時に、とりあえず僕は神社仏閣へ行ってお祈りをするようにしている。そうすると少しだけ無力感が軽減されるような気がする。
僕が若い頃に胃がんに罹ってしまった頃、当時はあまり交流をしていなかった親戚の叔父さんが、僕が闘病していた時に毎日地元の神社でお祈りをしてくれていたことを明かしてくれた。そんなことは全く知らなかった僕は、その事後報告にとても嬉しい気持ちになったこと強く覚えている。たとえ、叔父さんが自分の無力感軽減のために祈っていたとしても、それは関係なく嬉しいものだと思う。
思えば、西洋の医学が発展するまでは、多くの人類は祈りで病気に対応しようとしていたはずだ。「薬師寺」といった名称のお寺が多いのは、それを物語っている。病気との向き合い方が時代と共に変わっていっているに過ぎない。
これからも現実的な価値観をもとに生きていくことになるだろうが、何か不条理に遭遇した時には、躊躇なく神頼みをすることになると思う。