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酒と心と市場と自由|なぜ人は酒を飲むのか

普段から日常的に酒を飲むことが多いです。好みの酒は日本酒とビールで、仲間と飲むこともあればひとりで飲むこともあります。

しかし過去に2年間ほどきっかりと禁酒をしていたことがあります。学生の頃は飲んでいましたが、就職してすぐに病気となり入院・手術・化学療法となってしまったので、そこから禁酒禁煙の療養生活がはじまります。

その後、2年を経過して友人の誘いもあり、少しずつまた酒を飲みはじめました。プロフィールで書いた通り胃を切除する手術だったので「炭酸が入ったビールは飲めなくなる」と病院からも説明を受けていましたが、ラガービールではなくエールタイプのビールなら飲めることがわかり、ここからまた酒を飲むようになります。

酒が飲めるようになり喜んでいる一方、当時は仕事を失っていたので社会復帰のためのリハビリと就職活動にも励みながら、なかなか再就職が果たせずに苦労していた時期でもありました。そして当時の自分にとってのプライオリティは再就職を果たして社会復帰をすることだったのです。

この場合、合理的に考えると酒を飲めるようになったことは、優先事項である社会復帰に対してマイナスな出来事だといえるでしょう。酒を飲むと酩酊状態となり生産性が著しく下がるためです。

こうして個人の経験を振り返った時に、この世の中というのは仕事においては生産性を上げるべく組織で営業をしながら、個人では酒を飲んで酩酊し生産性を下げているという、全く不合理な営みを続けているように見えてきました。

人間とは全くもって不思議な生き物だな、ということで今回は酒について考察をすることとします。


飲酒はメンタルな行為|"酒の正体"を知る

アルコールは「百害あって一利なし」という情報をたまに見ます。

時々「百薬の長」という言い方もされていますが、酩酊している状況の生産性の低さや酩酊状態で犯す失敗のリスクを考えると、もっぱら不合理な行動と言えるので「百害あって一利なし」の理論に対抗することは正直なところ難しく感じます。仮に酒が「百薬の長」だったとしても酒呑みの言い訳に思えてしまうでしょう。

しかし、どれだけ酒の不合理さが世間に流布されようと、人は酒をなかなか辞めないはずです。なぜなら酒を飲むことは個人の人生設計における経済合理性で考えるものではなく、もっぱらメンタルな行為だからです。

中島らもの『愛をひっかるための釘』という本に「酒の正体」というエッセイがあります。

「酒を飲む」ということは、たとえば「本を読む」とか「踊りを踊る」とか「祈る」とかの行為と同様で、すこぶるメンタルな行為である。酔いを求めるということの基本において、ヘロインをうったり大麻を吸ったりすることとなんら変わりはない。酒に対して美学やダンディズムを唱える人はこういうことを聞くと眉をひそめられるだろうが、これは断じてそうなのである。酒に対する過剰な賛美もうんちくもストイシズムも「酒飲み道」も、すべてこれ求快の卑しさを糊塗するためのミスティフィカシオンにすぎない。

『愛をひっかるための釘』中島らも(集英社文庫) P.94

糊塗というのは「一時しのぎにごまかしておくこと」で、ミスティフィカシオンは「煙にまくこと」といった意味なので、ここで中島らもが言っているのは、酒について美辞麗句を語る人もいるが、そんな人たちも結局は快楽を求める行為をしている卑しさを綺麗に表現してごまかしたいだけだということです。冒頭の「酒は百薬の長」という表現も同様だと思います。

中島らもは過剰な飲酒癖によってアルコール依存となり、黄疸症状が現れて入院した経験があります。その経験をもとに描かれた『今夜、すべてのバーで』や酒を断つためのエッセイ『さかだち日記』を読めば、いかに彼が酒と向き合いながら人生を送ってきたかがわかります。

そんな彼が、酒は結局のところシンプルに快楽を求めるメンタルな行為なのだと語っているのです。つまり資本主義社会において生産性をあげる行為とは全く相容れないものだと考えた方がよさそうです。

職場の飲み会による社員同士のコミュニケーションが中長期的には組織の生産性向上につながる、などの意見もありそうですが、中島らもの見解からすると、それも「求快の卑しさを糊塗するためのミスティフィカシオン」であり、ただ快楽を求めたい人間の営みのように見えます。

合理的な人生設計に酒は不要|合理性と自由

現代社会は物価が高騰しながらも賃金はあがらず、日本人の人口もついに減少傾向に転じ、豊かになる未来が見えない状況が続いてきています。

ここで別の作家の意見を交えて考察をしてみます。投資や経済に関するフィクション及びノンフィクションを手掛ける人気作家の橘玲です。彼が主張する「人生は攻略できる」という文脈で語られた一連の書籍には多くのヒントが詰まっています。

彼の著書を読んでみると、現代は経済合理的な人生設計をすれば人生は決して悲観的なものではなく、たとえサラリーマンであっても豊かになることはできるということを教えてくれます。

景気のよろしくない現代の日本社会においてさえ、経済合理性に何よりも重きをおいて人生を攻略すれば豊かになれる、だったらそうした方がよいのではないか、無駄な出費は減らして優れた金融商品に投資を続け、経済的な自立を果たした方が自由な人生を過ごせるのではないか、そんなことを考えます。

一方で、先ほど書いた通り、酒を飲むということはそもそもメンタルな行為であるため、経済合理性の観点では非常に不合理な営みだということは承知の事実です。要は目先の快楽を求めているだけです。

そうだとしたら、現代社会において、やはり酒は辞めた方がよいでしょう。現に最近の若者は酒を飲む人が減ってきているそうです。

しかし最後に、橘玲の株式取引に関する新書のあとがきに、結論を導くためのヒントがありました。『臆病者のための株入門』という本です。この本ではインデックス投資の基本的な知識が紹介され、経済合理性を重視して生きることの利得をこれでもかと紹介してくれています。

しかし、市場の原理を説明しつつ、これだけ合理的な人生の最適解を示しながらも、あとがきの最後の最後でこんなことを書いています。

最後にお断りしておくと私自身はここで述べたような「合理的な投資法」を実践しているわけではない
ひとには、正しくないことをする自由もあるからだ

『臆病者のための株入門』橘玲(文春新書)P.229

どれだけ科学的根拠をもった合理的な理論が世に出たとしても、酒を飲むことがメンタルな行為であるかぎり、橘玲が言うように人々は「正しくないことをする自由」を行使して、合理的な市場において不合理に酒を飲むことを続けるでしょう。

酒を飲むのもやめるのも個人の自由です。僕はいいことがあった日や好きな人と一緒にいるときにはこれからも酒を飲みたいと思います。そういう時に飲む酒はなぜだかとっても旨いからです。

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