食べないのに料理をする日々|料理は機械化するのか
過去に料理を楽しんでいたことがあります。飲食店のアルバイト経験があったので包丁さばきやフライパンの振り方など、基本的なスキルは若いころに身に付けていました。ちなみに深いこだわりや得意料理などはありません。
最もよく料理をしていたのは実家で療養生活をしていた時のことです。手術後の療養として仕事を辞め、ただただ実家で抗がん剤を飲んで療養を続けるという日々を過ごしていた時のことでした。
「闘病」というと壮絶な印象を持ちますが、特に症状が出ていない時は退屈そのものな時間でもあります。少しずつ元気になり苦痛を感じない時間が増えていくと、その分退屈だと感じる時間も増えてくるのです。
そこで、まずはコーヒーを淹れることなどを始めてみたのですが、それだけで終日に及ぶ退屈な時間を補いきれるわけがなく、料理を始めることになったのです。
僕の療養生活は胃がんの手術で、胃を全摘出したこともあり、料理を作っても自分自身ではほとんど食事を摂ることができません。
自分で料理をして自分で食べてみて、食べ切れずに残してしまう、そんな何がしたいのかよくわからないような行いを続けていました。
それでも実家に暮らしていたため、自分が料理をして食べ切れないものは両親や兄弟に食べてもらうことで、料理をすることの意義を見出していくことになっていったのです。
その料理が成功したかどうかは自分ではなく家族の反応でわかります。思えば顧客のことを考えて創作をしているような営みを自然としていたのでした。
これは療養生活中に無職だったことが強く影響しているように思えます。少しでも自分に役割があることを感じられた充足感があったのです。
いくら療養生活中とはいえ、社会に対して何も提供できていない状況は、自分の役割を見出すことができない辛いもので、身近な家族に料理を提供することで家庭内における役割を果たせた気になったのでした。
そう考えると、飲食店で働いている人たちは体力を要する辛い仕事をこなしながらも、活気に満ちているように見えることがあります。非常にシンプルな動機で、お客さんに美味しい料理を提供している充足感が、その活気に現れているのかもしれません。
技術の進歩で料理も完全に機械化するかもしれませんが、料理を提供する側にも社会的影響があるということは、頭の片隅に置いておいても良いのかもしれません。