エールビールは美味い|炭酸が飲めない経験に学ぶ
ビールやハイボール、コカコーラや三ツ矢サイダーなど、当たり前のように炭酸飲料を飲んでいるが、今から10年以上前に炭酸を一切飲めなくなってしまったことがある。
胃がんに罹ったことで胃を全摘出してしまったのだ。病院からは術後の過ごし方として、食事は少量を良く噛んでから少しずつ飲みこむように言われ、飲み物も炭酸は控えるように指導された。酒は少量なら飲んでもいいが、ビールは炭酸が含まれているからNGだった。
そんな経緯もあって、20代前半だった当時、抗がん剤治療をしていた1年半くらい、炭酸を一切飲まず禁酒もしていた時期がある。それも胃を摘出しているので、食事もほとんど摂っていなかった。
20代前半の一般成人男性は良く飲んで良く食べ、そしてよく働く。そんな時期に酒も飲まず飯も食わず、仕事も失ってしまっていたのだ。ふたつの意味で食えていなかった。
こうして当たり前に飲み食いしていたものが目の前から姿を消し、僕は手持ち無沙汰になってしまった。何を飲み食いすればいいのか、さっぱりわからないんである。
とりあえず、本当に飲み食いが難しかった抗がん剤治療をしていた時期は、リハビリの様な食事ばかりしていたが、その後は少しずつ色々な飲食を試すようになった。
まずは酒を試してみる。医師からは炭酸が入っているビールやハイボールは禁じられていたので、まずは日本酒とワインから始めてみた。まだ酒の味を知らない20代の若者である。こんなかたちで日本酒とワインを嗜むようになるとは思ってもいなかった。
恐る恐る試してみたところ、どうやら問題なく酒を飲むことができるとわかり、日本酒もワインも好みの味だった。物凄く酩酊するのではないかと思っていたけれど、想像の範囲内だったのも良かった。
こうして酒の味を知った僕は、炭酸を除くお酒をたくさん試して飲むようになっていく。日本酒とワインはもちろんだが、焼酎やウイスキーも炭酸で割らなければ良いだけだ。
嗜好品を手放していた当時の僕にとって、これらのお酒は世界をパーッと拡げてくれる奥深い世界だった。日本酒もワインも、焼酎もウイスキーも、自分が知らない味や香り、醸造法や産地まで、本当に様々なものが世に存在することに興奮を覚えていたのである。
そうこうしていると飲み仲間もできてきて、いよいよ楽しくなってきたが、飲み会と言えば一杯目はだいたいビールと相場が決まっている。
酒は好きだがビールが飲めない僕はウーロンハイなどを頼んでその場を凌いでいたが、なぜビールを飲めないかを聞かれると少し困ってしまった。病気の話をする場でもないので、適当に回答していた記憶がある。
しかし、飲み仲間のひとりに酔っ払って病気のことを話してしまったことがある。胃がないので炭酸が含まれているビールが飲めないのだと。
すると、その飲み仲間は後日、僕をビアバーに連れて行ってくれた。どうやら炭酸が飲めなくても飲めるビールがあるということらしい。
そこで僕はリアルエールというエールビールを飲ませてもらった。リアルエールにはほとんど炭酸が入っておらず、僕の胃のない身体にもすーっと流し込むことができたのだった。
麦の味わいとホップの香りが懐かしさとともに体に染みわたっていき、程良い酩酊と共に至福の気持ちになれたことを今でも強く覚えている。
今では割と一般的になってきたエールビールだが、当時の日本人にとってビールと言えば炭酸が入っているキンキンに冷えたラガービールだった。
つまり、炭酸が飲めないならばビールは飲めないと思いこんでいたのである。医者もわざわざエールビールのことを教えてくれるわけがない。
しかし、ビールにも色々なビールがあったわけだ。僕はそれからというもの、たくさんのエールビールを飲み続けて過ごすことになる。
あれから10年以上が経ち、今ではラガービールも含めて炭酸を飲めるようになっているが、それでも「できなくなった時期」を経たことで、色々なものを経験することができたと思う。
もし炭酸が飲めなくなる経験を経なければ、未だにラガービールだけを飲み続けている生活をしているかもしれず、それはあまり面白いものではない。
そう考えると、何かができなくなる経験というのは、別の新しい経験をもたらしてくれる貴重な機会なのかもしれない。