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最後の晩餐と食欲の死生観|明日死ぬなら何食べる?

世界史ブロガーの尾登雄平さんの記事をよく読んでおり、この前たまたま最後の晩餐についての記事を見つけて読んだところ、全く知らなかった歴史が書かれており思わず食い入るように読んでしまった。

その投稿のタイトルは『死刑囚の「最後の晩餐」はなぜ始まったのか』というもので、2020年に投稿されたものだ。

ここでは、死刑囚に与える最後の晩餐についての歴史がその時に提供されたメニューととも書かれており、読みながら生と死と食事について考えさせられる内容だった。

ここで書かれている内容によると、死を前にした死刑囚に対しての粋な計らいであった最後の晩餐も、様々な事件によって「死刑になる人物への計らいは不要だ」という風潮が広まるまでの経緯が書かれている。

そうなった背景のひとつに、冒頭で書かれている殺人犯のジェームズ・バード・ジュニアが贅沢な最後の晩餐を頼んでおきながら、提供された料理を食することを拒否した事件があったらしい。

これを読んで、食事への思いと死生観は様々で複雑なものだとあらためて感じることとなった。自分が明日死ぬとわかっている時に最後の晩餐を楽しみたいものなのか、人によっては他に優先したいことがあるんじゃないか、と。

こうして考えを巡らせていたところ、僕自身も「最後の晩餐」に近い経験をしていたことに気づいた。

若い頃に胃がんに罹ってしまい、回復できる見込みは胃の摘出手術をして腹を開いてみないとわからないと言われていた。その手術前日の病院食である。

手術が成功したとしても胃を全摘出するので、いずれにしても食事ができなくなる未来が見えていた。

確かあの時は簡単なサンドイッチとスープとサラダだったと記憶している。当時の風景や心境はよく覚えているし、その食事を「これが最後かもしれない」と思った記憶まではあるが、正直なところ美味しかったかどうかはあまり覚えていない。

そう考えると、死を間際にした時に、人はそこまで「最後の晩餐」を意識しないのではないかと思えてきた。明日以降、生きているかわからない状態で美食を食べてどうするというんだ。

「死にたくない」という気持ち以上に「最後に美味いものが食べたい」と思うものだろうか。明日の死を受け入れた状態で食べる食事は本当に美味しいのだろうか。

結局のところ答えは見つからず、わからないままだけれど、こうして死生観について考えるのは大切なことだと思う。少なくとも、普段当たり前のように生きて当たり前のように食べている食事も「死」が身近にある状態で食べることで、その見え方が大きく変わるのは間違いない。

最後の晩餐を拒否する人もいれば、最後の晩餐の粋な計らいに美味しかったと心が温まる人もいるはずだ。死が目の前にある状態で感じることは、その人間の本心を表しているのかもしれない。

スティーブ・ジョブズも有名なスピーチでこう言っている。

人生を左右する分かれ道を選ぶとき、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと私は思います。
ほとんどのことがー周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖などーそういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです。自分はいつか死ぬという意識があれば、なにかを失うと心配する落とし穴にはまらずにすむのです。
人とは脆弱なものです。自分の心に従わない理由などありません。

2005年6月、スタンフォード大学卒業式典で行ったスピーチより

最後の晩餐を美味しいと思える場合は、その人の人生にとって食事が重要な要素を占めているのだろう。懐かしい家族団欒の思い出や行きつけの飲食店があったのかもしれない。

一方で、食事はあくまでも生きるために必要な行為だと考えていた人にとっては、空腹を満たすだけの存在であったり、その食事を拒否してしまったり、あまり執着はなかったのだろう。他の価値観に重きを置いていたのかもしれない。

「最後の晩餐があったら何を食べたい?」といった質問は、「死」を意識させることで、その人の食に対する関心を知る最も有用な方法なのかもしれない。

あらためて、自分にとって最後の晩餐は何がいいかもう一度考えてみたい。

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