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読書は旅か現実逃避か

『二流小説家』というミステリーを読んでいたところ、読書についての考察が書かれていた箇所があり、読書に対してあらためて向き合って考えるきっかけをもらった。ちなみに本作の主人公は小説家であるため、読書への造詣は深い。ちなみにポルノ小説ではあるが。

読書についての考察が書かれた箇所を引用する。

なにゆえぼくらは本を読むのか。子供のころ大好きだった本は、どんな理由で好きになったのだろう。おそらく、大部分の人間にとって、読書は旅なのではないかとぼくは思う。彼らにとっての小説とは、冒険の旅へといざなう翼、まるで自分のもののように思える夢へといざなう翼なのだろう。だが、一部の人間にとって、読書は現実逃避の手段ともなる。退屈や、不運や、孤独や、これ以上耐えられない場所や人間から逃げだすための翼となるのだ。
(中略)
そして、こういう理由から本を読む人々こそが、本に取り憑かれた真の読書家となり、熱狂的ファンともなる。彼らは、ヤク中がハイになったり、恋する人間が相手を崇めたりするのと同じ理由から、小説を読み耽る。つまりは、さしたる理由もなくその世界にのめりこむ。

『二流小説家』/デイヴィッド・ゴードン(ハヤカワ文庫)P.236

確かに読書は旅のようであり、自由への扉が開かれる感覚がある。本を読むことで広がった世界観はかけがえのないものだと思う。

新しい何かに挑戦する時や、更なる知的好奇心を探求する時、ここに書かれているように、本が夢へといざなう翼のような存在になっているかもしれない。だからこそ、今も多くの人が本を読んでいるのだ。

著名な経営者やビジネスマンが読書家である話はよく聞くが、それもビジネスという荒野に立ち向かうためには、本から得る知識が必要だからだろう。

しかし、ここで特筆されているのは「現実逃避としての読書」であり、そういう人ほど読書家だと書かれている。

個人的な経験談になるが、僕も本格的に読書をするようになったきっかけは「現実逃避」だった。23歳の時に胃がんに罹り、何もできないリハビリ期間に有り余る時間を読書に充てていたところ、「本に取り憑かれた」状態になってしまった。退屈も、不運も、孤独も、全て本を読むことでその苦しみから一時的に逃げだすことができていた。

本を読む行為は、何かの目標に向けて逆算して行うのではなく、自然発生的に取り組む本能的な行為だと言えるのかもしれない。金持ちになれる本、といった読書に熱中できないのは、それが本能的ではないからだ。(熱中している場合、騙されている可能性がある)

こうして「現実逃避としての読書」について、あらためて考えてみると、厳しい現実に立ち向かうことができるほど強い人間ばかりではないと思い直してきた。自分もそうだったが、特に若い時には尚更だと思う。

だから、熱狂的な読書家の人を見つけると内心とても嬉しくなる。この人も何か辛い出来事を乗り越えてきているかもしれないと考えてしまい、勝手に仲間意識を抱くのだ。

太宰治も『如是我聞』で「本を読まないということは、その人が孤独でないという証拠である。」と書いている。

本は、旅として読むこともできれば、現実逃避として読むこともできる、とっても寛容なメディアだ。厳しい現実を生きていかなければいけない人生、本を味方につけて有意義なものにしていきたい。


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