見出し画像

あなたの小説を読ませてください#3『日々 / 雨宮吾子』



日々 / 雨宮吾子

https://kakuyomu.jp/works/16816452218429196512


例えば、花を描写するとはどういうことだろう。
花、と書いてみただけでは、記号に過ぎないように思われる。
花頭の重みに茎の弛んだ白い花、ならばどうだろう。少しばかり「花」が現れてきた。
しかしなにも、なにかを描くとは視覚情報に必ず頼らねばならないというわけでもなさそうだ。
死んだ愛犬を埋めたところに咲いた花、と書いても「花」は現れてくる。
描写とはなんだろうか。
少なくとも、ある「なにか」の記号として機能する言葉に対して、ある「なにか」そのもののように機能する言葉があることは間違いない。「なにか」の抽象的な姿と具体的な姿とが、そこにある。
つまるところ描写とは、記号の檻から遁走してイメージへと飛翔する言葉だろうか。

⚪︎⚪︎⚪︎

敬虔な、とでも形容したくなる静かな一篇である。

老いて骨張った手があれば、契りを交わしたばかりの少しぶよぶととした手もあり、また白光するような瑞々しい手もある。老いた手であろうと若き手であろうと、それ自体に意味はない。より働き、より多くの糧を生み出せる手こそが尊ばれる。

手の個別性が等しく労働力に還元されるのとちょうど同じように、ここに名を持った人間はいない。顔を持つ人間さえいない。働く背、台所に立つ背、山の樹々の奥に見え隠れする背だけがある。男、女、それくらいしか纏っているものはない。
また注意せねばならぬのは、彼らになんらかの共同性も希薄な点である。ここには土に汗が沁み渡り、からだと自然が境目をなくし、肌と肌が溶け合う空間の沸騰はない。手がただ手としてあり、日がただ日としてある。糧、とは不思議に抽象的な言葉だ。その透明な響きのもののために、男も女もなにか人形じみた規則性を漂わせながら静かに立ち働く。
噛み締める米粒のやわらかさに男たちが女を思い起こす甘やかなその刹那も、イメージの翼の音と聞き違えるべきではない。
米粒のやわらかさで女を思い出すという光景の禍々しい力は、決してイメージの広がりや深みからくるものではない。むしろ対極である。米のやわらかさは女を〈象徴〉するのではない。そうではなくて、米と女体の触感にのみ根差した連想なのであり、従って極めて即物的な生理感覚である。

⚪︎⚪︎⚪︎

ところで里山の小高いところにある寺は、老尼が取り仕切っているそうである。

ごろりと投げ出された遺骨のような末文である。
最後までどこにも、イメージへと飛翔する言葉はなかった。しかしここには紛れもなく「なにか」が現れている。
述べられたことで描かれたのだ。
すべての言葉が、ただそこにそれがある、ということを述べているに過ぎない。すべてが明らかになった。すると、すべてが現れた。まるで強い光が強い影を落とすように。光と影の接線をなんと呼ぼうか。
花。
置かれた一つの言葉が、それだけで、花を今ここに現すということが、ありえるのだ。事実の提示。たったそれだけの、白い沈黙が、しかしなにかを語り尽くすのだ。
改めて問うてみる。描写とはなにか。
描写と叙述は同じ点へ向かうのだろうか。
答えはまだ知らない。
私が知っているのは、このような言葉を書き、読むために、短い散文という形式へ私は突き動かされてきたのだということだけだ。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?