日本の国際連盟脱退は一体なんだったのか
日本にとって8月は極めて特殊な月だと認識します。それは、1945年(昭和20年)8月6日に広島市に原子爆弾が落とされ、同月9日に長崎市に原子爆弾が落とされ、同月15日に天皇陛下による終戦の玉音放送が流れたからです(正式な終戦は降伏文書の調印の9月2日)。
つまりこの8月は、日本と中国(この場合の中国は中華民国<現:台湾>)、そして日本とアメリカとの戦争が急展開した月なのです。
我々は毎年8月を迎える度にその都度考える必要があります。あの戦争はいったいなんだったのかということを。そして後世に伝えていかねばなりません。
中華民国の内部抗争と国際法上の日本の権益
太平洋戦争を考える前に、なぜ、それが起きたのかの問題から目を背けることはできません。
時代は明治初期まで遡ります。
日本で徳川幕府が倒れ、明治政府が立ち上がった時代、中国全土を支配していた大清帝国(1616−1912)との間では、李氏朝鮮内部の騒動(内乱?)における派兵・撤兵の駆け引きの争いから日清戦争が勃発しました。
戦争の結果、日本は清国に勝利し、朝鮮半島や満洲地域(現在の中国の東北部)における数々の権益を確保しました。しかしながらこの時期、ロシア帝国も南下政策(凍らない港を手に入れる)に基づいて朝鮮半島を狙っており、これが日露戦争の勃発につながっています。
1911年(明治四十四年)、孫文や袁世凱らによる辛亥革命が起き、大清帝国が倒れ、1912年(明治四十五年)、孫文や袁世凱らによって中華民国(現在の台湾)が作られます。初代大統領は袁世凱でした。しかしこの二人は後に決裂し、孫文らが中国国民党を設立するのと同じくらいのタイミングで、中華民国の中に親ソビエトの影響をうけた中国共産党が立ち上がり、中国国民党と中国共産党は協力して、袁世凱政権を攻撃します。
孫文の死後、後を次いだ蒋介石によって中華民国南京政府が成立すると、中華民国は大清帝国時代に日清、日露戦争時に締結された数々の条約の破棄を一方的に日本に通告してきました。
このため、日本は満洲や朝鮮における自国の権益を守るために軍(関東軍)を現地に派遣することになります。
武力と思想の狭間で生まれた満州国建国構想
中華民国南京政府の国民革命軍が北上し、満州への危険度が高まってくる反面、ソビエトのテロ活動によって共産勢力の南下も始まっており、満州は北から武力、南から思想による脅威にさらされることになります。
この脅威から日本の権益を守るため、現場の関東軍は満州を中華民国から切り離し、日本が満州を実効支配する必要性を考え始めました。ただ、満州には袁世凱の死後、満州地域に絶大なる勢力と軍事力を持っていた張作霖がおり、それは限りなく不可能な話でした。
1928年(昭和三年)、張作霖が国民革命軍に敗れる事態となり、関東軍は張作霖に見切りをつけ、張作霖を爆殺します。これが関東軍の起こしたことをであることを知った張作霖の息子、張学良は中華民国南京政府に身を寄せたため、中華民国は日本人の行動と経済活動を制限するなどの排日・反日政策を次々と打ち出してきました。
満洲や中華民国による排日、反日施策は日本国内にも報じられました。国会で野党(立憲政友会)が若槻禮次郎内閣の政府与党(立憲民政党)による「戦線不拡大」の外交政策を「軟弱」と批判し、武力による解決が議論されていました。新聞もこれを連日報じたため、国内世論も武力制圧論が高まっていきます。
1931年(昭和六年)9月18日、奉天(現在の遼寧省瀋陽市)郊外の柳条湖付近で南満洲鉄道(日本がロシアから譲り受けた鉄道)線路上で爆発が起きました(世に言う「柳条湖事件」です)。
これを張学良の軍勢の仕業を決めつけた関東軍は、軍事行動を開始。政府の方針とは無関係に満州を軍事制圧し実効支配化を進めていきます(満州事変)。
ただ、国際世論から批判を受けることは関東軍の本意ではなかったのと、日本本国の陸軍省の理解をえるため、関東軍は満州を独立国家として成立させようと考えます。そのため、支配した地域の盟主となる存在に小さな在地勢力をつくらせ、彼らの合議の上で満州国を建国し、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(ラスト・エンペラー)を皇帝として迎える体制を整えます。
こうして、1932年(昭和七年)、満州国が建国されたのです。
中華民国、国際連盟に日本を訴える。
満州国建国は中華民国としては自分たちの領土の一部が満州国として勝手に独立したものですから、到底受け入れられません。この時代は国際問題を調整、解決する機関として「国際連盟(国連)」があり、中華民国は満州国建国以前にこの問題を国際連盟に訴え出ていました。
中華民国の訴えを聞き入れや国連は事実確認のため、イギリスのヴィクター・ブルワー=リットンによる調査団(リットン調査団)を派遣し、日本、中華民国と満州を調査します。その結果は
「満州の領土は法律的には完全に中華民国の一部分であるが、中華民国としては満州に特別関心をもってはいない。もともと不毛の地であった満州を現在の形にしたのは日本の努力よるもの」
「かといって日本が武力をもって彼の地を制圧したのを自衛権のためとするのは行き過ぎ」
「現在の満州国の政権は純粋かつ一般国民の自発的なる独立運動によって出現したものとはいえず、日本軍によって均衡が維持されている」
「日本が満洲に持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべき。国際社会や日本国政府は中華民国政府の近代化に貢献できる存在であり、居留民の安全を目的とした治外法権はその成果によって見直すべき。一方が武力を、他方が経済的武力や挑発を行使している限り、平和はない」
という結論が導かれました。
この結論は、中華民国側が満州に関してあまり関心をもっていなかった事実、そして日本側が満州の荒地を開拓し、鉄道を敷設して人の住める土地に整備してきた事実、そして国際法上の権益はきちんと守るべきという事実がきちんと公平な視点ので網羅されているものの、日本の軍事活動(関東軍の行動)による自衛権の主張は無理があると断罪しています。
調査団は以上の事実から下記の提言を導いています。
1、「日本の武力制圧以前の状態の戻せ(中華民国側の主張)」、「満洲国の承認(日本側の主張)」は、いずれも問題解決とはならない。よって、中華民国の主権の下に新たな自治政府を樹立せよ。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、充分な行政権を持つものとする。
2、満洲を非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う。
3、日本と中華民国の両国は「不可侵条約」「通商条約」を締結する。ソ連がこれに参加を求めるのであれば、別途三国条約を締結する。
この内容は1932年10月1日、国連理事会に報告書が提出され、10月2日、世界にも公表されました。
国際連盟の主要国や加盟国の多くはこのリットン調査団の報告書と提言によって満州地域の軍事活動は縮小されると考えていました。満州の領土は中華民国に帰属するものの、日本の権益は以前のままですから、これに反する意見がでるわけがないと。
しかし、日本は、1932年8月25日の衆議院での内田康哉外務大臣の「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」という答弁もあり、同年9月18日、日本は満州国を独立国家であると承認し、日満議定書を締結していました。その状況において、リットン調査団の報告書が10月2日に公表されると日本国内の世論は連盟に対して硬化していきます。
リットン調査団の報告書と提言は、日満議定書をただの紙屑にするものでした。よって「満洲国が独立国として国際的な承認を得る」という一点だけは日本としては絶対に譲れない部分でした。
日本、国際連盟脱退へ
1933年2月24日、国際連盟総会で「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の採択が付議されました。その内容は
1、満州の主権は中華民国にあること
2、関東軍の行動は自衛とは言えないこと
3、中華民国からの満州国の分離独立は承認すべきではないが、日本の権益は維持され、行動は九カ国条約(第一次世界大戦後の中国の独立性や国家権益を定めたもの)が維持されること
というものでした。日本からすれば関東軍の軍事活動の否定と満州国の独立否定のダブルパンチであり、到底受け入れられる内容ではありませんでした。
採決の結果、賛成42票、反対1票、棄権1票、投票不参加1国で、反対は日本だけでした。国連総会の規定は全会一致または過半数の賛成を以て議決の成立となるため、この報告書は賛成多数で採択されました。
しかし、日本全権大使松岡洋右は
「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」
と述べ、総会から退場したと言います。
このことを日本のメディア(新聞、ラジオ)は、拍手喝采で支持し、朝日新聞は
『連盟よさらば!遂に協力の方途尽く 連盟、報告書を採択し我が代表堂々退場す』
とよくやったと言わんばかりの見出しで報じました。
当時の日本の政治状況
1931年(昭和6年)9月18日に柳条湖事件を発端として起きた満洲事変の時、日本政府は若槻禮次郎内閣の時でした。内閣としては事態不拡大の方針を閣議決定したものの、関東軍は独断で国境を越えてしまったため、後付けで予算を認め、これが満洲事変が拡大する原因になってしまいます。
この頃から若槻首相は政権運営に自信をなくし始めており、この難局を乗り切るため、安達謙蔵内務大臣が、野党である立憲政友会と共に連立内閣の立ち上げを考え、挙国一致内閣を成立させようとしますが、閣内意見分裂となり、逆に安達謙蔵への批判が勃発。若槻は安達の内務大臣辞職を要求しましたが、安達が拒否したため、若槻は閣内不一致を以て内閣総辞職となります。
代わって組閣されたのが犬養毅内閣です。軍部は満州に傀儡政権設立を求めていましたが犬養はそれを一蹴し、中国の宗主権を認めた上で、経済的に意味のある日中合弁の政権設立を主張しました(これは奇しくもリットン調査団の提案と同じであります)。
しかし、この構想は内閣書記官長であった森恪によって潰されてしまい、さらに1932年(昭和七年)5月15日に起きた「五・一五事件」で犬養は暗殺されてしまいます。
犬養暗殺後、立憲政友会総裁には鈴木喜三郎が選出され、そのまま内閣組閣の流れでしたが、政友会単独内閣に軍部が反対し、結果、海軍穏健派の長老でにして英語が堪能な国際派軍人である斎藤実が首相に起用され、斎藤内閣が成立します。
この斎藤内閣によって、ついに満州は独立国として認められるのです。
国際連盟脱退は避けうることはできなかったのか
学校の授業や一部の歴史関係書類には、当時日本政府全権大使であった松岡洋右が、国連総会の議決内容に激怒して、自らの独断で脱盟を決めたかのように描かれているものもありますが、事実は違います。
まず、松岡が全権大使に選ばれたのは英語の弁舌能力がもっとも堪能な人材だったことが挙げられます。現に松岡は国連総会において1時間20分もの演説を行い「ここまで英語を巧みに操れる日本人がいるのか」と他国の要人から高く評価されています。
そして松岡を国連総会に派遣するにあたり、日本政府と外務省は総会内容における日本国の対応を決めて松岡に訓令という形で伝えました。その中の最悪のケースが「日本の主張が受け入れられなければ、国際連盟脱退はやむ得ない」というものでした。
したがって最初から「国際連盟脱退」ありきではありませんでした。
また、信じ難いことではありますが、この国際連盟脱退については、政治、軍部だけではなく、日本国内のメディア(新聞)や一般市民も歓迎しております。それは、帰国した松岡を世論が「ジュネーブの英雄」として讃えたところに表れています。
つまり、この頃は日本の満州支配を政治、軍部、メディア、国民のいずれもが「満州支配は正しいこと」と認識していたことになります。
歴史的事実を客観的に見ていくと、満州問題の原因は、中華民国が大清帝国時代の国際条約を一方的に破棄したことに端を発していると見ています。そのため満州鉄道をはじめ日本の権益を守るために軍を派遣したこと自体は、当然のことと思うので問題はないでしょう。
問題は、関東軍が日本本国である陸軍省ならびに政府に許可も承認を得ないままに戦端を開き、勝手に満州で武力拡大を広げたことにあるかと思います。
加えて、リットン調査団の報告書が国連に提示される前に、なんとか満州国を独立国として承認し、後戻りができないように既成事実化しようと考えたのではないでしょうか。
国連総会の採択に日本が同意し、満州に中華民国と日本の合弁政権ができていれば、日中戦争も起きず、あの太平洋戦争にも繋がらなかったのではないかと思えてなりません。
歴史にもしもはありませんが。。。