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貴き血筋であっても力なければ無力

2022年1月16日(日)大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第2話「佐殿の腹」が放送されました。

前回の第1話以上に義時の振り回されぷりが酷かったですね。

こんな家にいたら、今の世だったら義時くんは間違いなくグレます(苦笑)。

前回のエントリーでも書きましたが、この時代は土地を所有するものは自らの力でそれを守らねば誰からも守ってもらえません。つまり武力(軍事力=兵力)がその勢力の生き死にを決めるわけです。

この時代、北条氏は北条庄という小さな領地の地主(土豪)ですが、伊東氏は伊東荘(現在の伊東市、伊豆の国市一帯)を納めていた大地主です。それがドンパチやろうとしたのが第1話のクライマックスでした。

一定以上の武力を持つ勢力同士の武力衝突を抑えるには、その当事者を上回る武力が必要です。
で、今回はこの人(↓)がでてきたわけですね。

大庭景親(演:國村隼)
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この偉そうなオッサンは何者なのか

國村隼さんが演じるこのオッサンは、大庭景親(おおば かげちか)と言います。彼については『鎌倉殿の13人』公式サイトではこのように説明されています。

平清盛の信頼厚い相模一の大物。平家の威光を背景に「坂東の後見」ともいわれる影響力を持つ。挙兵する頼朝の前に大きな壁となって立ちはだかる。

『鎌倉殿の13人』公式サイトより

これだけ読むと「ふーん…..」で終わってしまいます。
なぜ伊東も北条も大庭には手がでなかったのか?
それは坂東(東国)に関わる因縁があるんです。

大庭氏の発祥

まず、大前提として、坂東(東国)の武士の多くは桓武平氏を祖先に持っています。

桓武天皇の孫に高望王(たかもちおう)という人がいました。

高望王は、時の天皇(宇多天皇)より臣籍降下(皇族ではなく人臣<臣下>の列に下がること)を命じられて平姓を与えられ、平高望を名乗ります。

平高望は上総介(上総国<千葉県中部>の次官)に任ぜられて上総国に赴任したのですが、任期が終わっても京に戻りませんでした。それどころか自分の息子たちを在地の豪族たちと婚姻させて血縁者となり、上総国を中心に自分の領地の開発を進めていきます。

彼らは開発した土地を守るため、自ら武装しました。これが坂東(東国)武士団の発祥になります。

高望の血統から、坂東には以下の主だった氏族が生まれます。

▼平忠頼流(高望の孫)
千葉氏、上総氏、秩父氏、小山田氏、畠山氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏、豊島氏、葛西氏


▼平忠光流(高望の孫)
中村氏、土肥氏、三浦氏、鎌倉氏


このうちの「鎌倉氏」が相模国鎌倉郡を根拠地に勢力を広げた武士団となり、この家から出た鎌倉景正という人が多数の家来を養って、相模国高座郡(現在の神奈川県茅ヶ崎市および藤沢市)一帯を開発し、伊勢神宮に寄進させて「大庭御厨(おおば みくりや)」が成立します。

この大庭御厨の下司(管理者)が大庭氏の始まりになります。

西暦1144年(天養元年)頃、すでに坂東(東国)に下向して「暴れん坊」としてブイブイ言わせていた源義朝(頼朝の父)は、自分の勢力を築くために在地豪族の土地争いに積極的に介入していました。

要はあちこちにケンカをふっかけていたわけです。

大庭御厨もその影響を受け、義朝の略奪行為が行われています(朝廷は不問にしています)。

しかし大庭氏はここで義朝に臣従し、当時の大庭氏当主・大庭景義とその弟は京都で起きた「保元の乱」(後述)に義朝方として加わっていました。

乱の最中、大庭景義は足に敵の矢を受けて歩行困難となり、弟に家督代行を任せることになります。

これが大庭景親です。

源氏びいきの兄・景義と違い、弟の景親は「平治の乱」(後述/源氏没落の原因となった戦争)後は平家に近づき、坂東(東国)における親平家の代表格になっていました。

なぜ、大庭氏は伊東氏や北条氏を抑え込めるのか

この三氏の当時の支配領域を見てみましょう。

大庭景親:大庭御厨(神奈川県茅ヶ崎市全域+藤沢市の一部)
伊東祐親:伊東荘+河津荘(静岡県伊東市全域+伊豆の国市の一部)
北条時政:北条庄(静岡県伊豆の国市の一部)


一目瞭然ですね。
伊東祐親の娘北条時政の最初の正室(宗時、義時、阿波局(ドラマ上は実衣)の母)なのですが、別の娘を三浦義澄(演:佐藤B作/三浦半島を支配)に嫁がせているので、伊東氏は自分の勢力拡大に余念がなかったのは間違い無いでしょう。

おそらく伊東氏と大庭氏は平家に対してライバル関係にあるほどの勢力を持っていたのではないかと思います。そして平家もそれを利用して坂東(東国)の武士団をコントロールしていた節があります。

伊東祐親は平家より、当時流人だった頼朝の監視を命じられていますが、大庭景親は、源氏再興のキッカケとなった以仁王の乱が起きた時(在京していたというのもありますが)、平家より「頼朝を討て」と命ぜられて領地に帰っています。

そして景親と祐親は石橋山の合戦で反頼朝で一致しています。

このあたり、両者が平家の信頼を勝ち取るかの競争が働いているかのようです。

ちなみに軍事力で言うならば、大庭景親は後に石橋山の合戦で3000騎を率いて参陣します。もちろん景親だけの自勢力ではありません、祐親の勢力も加わっています。ですが、そこまでの兵を集められることは景親の坂東(東国)における信用力の表れに他なりません。

なぜ頼朝は伊豆に流されたのか

西暦1156年(保元元年)7月、京都で治天の君(上皇)である鳥羽法皇が崩御しました。これにより当時の上皇・崇徳上皇を支持する派閥と、天皇・後白河天皇を支持する派閥の間で、摂関家、武家を巻き込んだ武力衝突が起きました。

世に言う「保元の乱」です。

勝ったのは後白河天皇派で、勝利に貢献したのは平清盛(伊勢平氏)源義朝(河内源氏/頼朝の父)の武力でした。

乱の後、後白河の近臣であった信西が権力を持ち、政治改革をを行っていきますが、強権的に進めていたため、他の貴族からの反感をかっていました。

一方で、皇族たちは後白河天皇に対して守仁親王に皇位を譲るように求めました。もともと後白河天皇は守仁親王が成人するまでの間の「中継ぎ」として、立太子を経ずに即位しており、本来の皇統のあるべき姿は守仁親王にあったためです。

西暦1158年(保元二年)8月、後白河は皇位を守仁親王に譲り(以後「二条天皇」)、後白河天皇は太上天皇(上皇)となります。

ここに二条天皇派と後白河上皇派の2つの派閥が生まれ、この対立は徐々に激しさを増していきました。

西暦1160年(平治元年)12月9日、平清盛が熊野詣に出かけていた隙に、後白河院の近臣である藤原信頼らは、信西一族を討つため院御所(三条殿)を襲撃しました。世に言う「平治の乱」の始まりです。

信頼は後白河院と二条天皇を保護した上で、信西の息子たちを捕らえ、信西も自害させることに成功します。この時、信頼に軍事力を提供していたのが源義朝でした。これによって信頼のクーデターは成功したかに見えました。

しかし、熊野詣に出かけていた清盛は京での異変を聞きつけ、17日までに京の屋敷に戻ります。その際、紀伊(和歌山)、伊勢(三重県東部)、伊賀(三重県西部)の平氏の郎党に伝令を出し、武装させて京に集合させました。

当時の義朝の在京の軍勢は三条館を襲撃する程度の兵力しか持っていませんでした。よって紀伊、伊勢、伊賀三国から郎党を呼び寄せた清盛の軍事力の方が義朝の軍事力を上回っていました。

それを知った二条天皇派は、クーデターを起こした信頼を失脚させるため、清盛を抱きこもうと工作を始めます。

12月26日、二条天皇派の工作によって二条天皇は清盛の屋敷である六波羅に行幸し、天皇の身が清盛陣営の手に移ります。これにより信頼は政権の正当性を失い、義朝は完全に「賊軍」になってしまうのです。

27日、義朝は清盛と六条河原で決戦に臨みますが、義朝が敗れて自身の本拠地である坂東(東国)目指して逃亡。途中、尾張国で郎党の長田忠致に殺害されます。

義朝長男の義平は捕らえられて斬首。次男朝長はこの戦いの傷が元で死亡。そして三男にして嫡男(正室の子)である頼朝も捕縛されますが、彼は上西門院二条天皇の蔵人であったことから、それを通じた清盛の母・池禅尼の命乞いによって命は助けられ、伊豆に流されました。

軍事力なき貴種に意味なし

河内源氏の嫡流に生まれた頼朝は、罪人として伊豆に流されました。
自分の血のつながった家族など一人もおりません。
そんな状況で頼朝が「兵を挙げよう」としても自分の勢力を持っていないので、それこそ大庭景親に踏み潰されてジ・エンドになります。

ドラマの中で、頼朝は自分の勢力候補の存在を伊東祐親に見出したと言っています。祐親の娘・八重姫と男女の仲になり、子供を作ったら伊東家は婿の自分の味方となり、祐親の勢力は頼朝旗揚げ時の後ろ盾になると考えていたようです。

「伊豆に来た時、わしは一人だった。藤九郎のように身の回りの世話をしてくれる者はいる。比企尼のように何かとワシに気遣ってくれるものもいる。しかしワシには身内がおらん。いざと言う時に力になってくれる後ろ盾がおらん。

伊東の者たちが、そうなってくれることを望んだ。考えが甘かった」

『鎌倉殿の13人』第2話「佐殿の腹」38:40頃

しかし、頼朝は、伊東祐親と大庭景親が平家の信任を巡って競走していたことを知らなかったのでしょう。

祐親にとって景親よりも平家の信頼を獲得し、この坂東(東国)において伊東氏の家格を挙げることが第一。

娘が頼朝と婚姻して子供を作ったとなったら間違いなく平家の信頼を失い、家格を下げることは必定でした。それは祐親にとってはどうしても受け入れられない現実だったと思われます。

結果、頼朝と八重姫の間の子・千鶴丸は殺害され、二人は離縁させられ、祐親は頼朝殺害を試みます。

その頼朝の身を助けたのがドラマ上では北条宗時(時政嫡男/義時兄)になります。

北条は伊東とは違い、源氏の嫡流である頼朝を(宗時の暴走の結果とはいえ)一家を挙げて世話しました。祐親の軍勢が攻め寄せても戦って頼朝を守ろうとしました。

軍事力としては伊東の格下になりますが、家としての団結力を頼朝が頼みに思うようになってもおかしくはないでしょう。

「そこに北条が現れた。もう失敗は許されない。ワシには時がない。ワシは北条の婿となり、北条を後ろ盾として、悲願を成就させる。それゆえ、政子殿に近づいたのだ」

『鎌倉殿の13人』第2話「佐殿の腹」38:40頃

故に頼朝は政子と結婚し、北条の軍事力を、まるでクルマのエンジンをかけるスターターのように使い、源氏再興に向けて動いていくのです。

なぜ義時は頼朝に信用されたのか?

残る疑問は、第2話の終盤で頼朝は義時だけに自分の心打ちを明かしました。自分に心寄せる宗時ではなく、なぜ義時だったのでしょうか?

いろいろ考えましたが、おそらく義時の気質が「馬鹿正直」であるためではないかと思われます。

兄・宗時は頼朝を旗印に源氏再興の挙兵を行い、平家を潰すことを公言しています。そこには源氏再興によって北条家の家格を上げるという目的・打算があったと考えるのが妥当かと思います。

それは北条一族を率いる嫡男であれば、当然の考えです。

しかし、義時は次男ですので、家督とは無縁です。それゆえ、自由奔放に生きられるはずだったのですが、頼朝が北条家に転がり込んできたために、彼の生活は一変しました。

そして頼朝も義時が心から自分を信用していないことを知っていたと思われます。それゆえに義時は誰よりも正直に頼朝に接していたと思います。

だからドラマの中で

「出て行ってください、北条から」

『鎌倉殿の13人』第2話「佐殿の腹」38:40頃

というのは、紛れもない義時の本心の一言だったでしょう。

しかし、その一言が頼朝のココロをわしづかみにしました。

自分の生まれながらの源氏の嫡流という宿命、そして平家の流人という存在が人を遠ざけ、腫れ物に触るように扱われ、誰も心から本心を明かしてくれない周囲の中において、ど・ストレートに「出てけ」と言える人間はそうザラにはいません。

それが姉・政子を守るためであってもです。

だから頼朝は義時に心のうちを晒したのだと思います。
さて、本心と吐露された義時くんが今後どんな行動を取るのか。楽しみですね。












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