
スピノザとコロナ
スピノザの思想が定着をしていれば、コロナをめぐる風景も随分と違ったものになっていただろう。
西川伸一(京大名誉教授)は、こう語る。
「これまで見てきたようにスピノザは生命科学という点から見ると、人間も含めた全てが自然と一体化することを述べたことにつきる。ただ、このことはその後の生物学の発展過程であまり重視されず、デカルト的二元論や、ライプニッツ的有機体論と比べると、スピノザの存在感は薄い。しかし、スピノザの倫理は、宗教・国家の規範や法から生まれる禁止としての倫理を完全に否定し、自然の必然性として生まれる倫理を構想しようとしている点で、それまでにない全く新しい倫理といえ、現在の脳科学とオーバーラップし始めている。」
「これまで私も多くの人と生命倫理について議論をしてきたが、相互にわかり合おうと議論を重ねても、結局多元的な文化という壁に当たって、「倫理とは他の意見のあることを知り尊重することだ」とする以外の解を見つけることが出来ない。これは生命倫理に限らず、核問題でも、戦争でも、言論の自由の問題でも同じだ。そして今我々は、対話を拒否することをいとわない大きな力を前に、倫理が後退し続けているのを目の当たりにしている。結局この壁を本当に克服するには、スピノザの言う自然の内的原因に由来する倫理への道を探すしかない。」
ここで語られていることは、意思自由と客観的規範を峻別することで壮大なドグマティークを成立させたドイツ近代市民法学とこれを継承した(日本を含む)各国の近現代法学にも通じる。
法哲学者の碧海純一(東大名誉教授)が傾倒したカール・ポッパーは、スピノザを本質主義者として退け、カントを評価した。ドイツの近現代法学においても、ヘーゲルとカントの影響は圧倒的だが、スピノザが省みられることが少なかった。世界のアカデミアにおいて、スピノザは今、再評価の流れにあるが(岩波も今年全集を出す)、遠からず日本の法学においても取り上げられるようになるだろう。