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こまつ座『父と暮せば』と、継ぐことのないわたしへ
「人は揺らいで、人となる」
もうどこで誰から聞いたのかも忘れてしまったけれど、長らくわたしを支えてくれた言葉のひとつだ。
正しさとはなんなのか、どうあれば優しくいられるのか、否、優しくあろうなどと思うのがそもそも傲慢なのか……わたしは、きっと青春時代の多くがそうであるように、揺らいで、揺らいで、自分の足もとすらもグラグラと覚束ない感覚に苛まれてながら生きてきた。
「揺らぐことが、──迷いのなかそれでもなお道を見出そうともがくことが、人が人たる証だ」ともとれるこの言葉は、自分の逡巡すらも愛すべきものと認めてくれるようで、少なからずわたしの人生の覚束なさを肯定してくれた。
社会に出て、日々の判断に感情よりも合理性・論理性を優先することに慣れた頃には、変わりばえのない生活といくばくかの開き直りとともに、揺らぐこともいつしか少なくなっていた。
しかし今、ふたたび自分の深い部分が揺さぶられているのを感じている。
* * *
きっかけのひとつは、こまつ座の『父と暮せば』だった。
井上ひさしの戯曲はこれまでもいくつか劇場で観てきた。しかし、代表作のひとつとも言えるこの『父と暮せば』は、いつか観なければいけないとは思いながらも、タイミングを逃し続けてきて、今回が初めての観劇となった。
物語は、父・竹造と娘・美津江の二人芝居で進んでいく。
広島への原爆投下から三年後。あのピカから一転、人が変わったように無口で無愛想になったという美津江のもとに、原爆で亡くなったはずの父・竹造が現れる。美津江の恋の応援団長として出てきたというのだ。
そう、竹造は勤め先の図書館にやってきた木下という青年に、美津江がひっそりと胸をときめかせていることを知っている。ところが竹造の後押しとは裏腹に、かたくなに誰かを好きになることを拒む美津江。
ピカの一件から雷が怖くなってしまったこと。外ではほとんど笑顔を見せなくなったこと。原爆症に苦しんだこと。──原爆の影響が随所にちりばめられているが、陽気でお喋りな父とのやりとりのなかで美津江はかつての快活な性格の片鱗をのぞかせる。その様子からは悲惨な戦争体験をほとんど想像することができない。しかし、美津江は木下に淡い恋心を抱きながらも、恋をし、しあわせになることを恐れ、繰り返しそこから逃げようとするのだ。
「うち、人をすいたりしてはいけんのです。」
「うちよりもっとしあわせになってええ人たちがぎょうさんおってでした。そいじゃけえ、その人たちを押しのけて、うちがしあわせになるいうわけには行かんのです。」
「うちはおとったんを地獄よりひどい火の海に置き去りにして逃げた娘じゃ。そよな人間にしあわせになる資格はない……。」
生きのこってしまった罪悪感と絶望から癒されることもなく、なんとかその日を生きるために心の傷に蓋をしていた美津江の本音が、幸せになる後押しをしようとする父との対話のなかで噴き出していく。
悲しみも絶望も日常のすぐそばに
タイトルは忘れてしまったが、昔読んだ本に書いてあったことを思い出す。
喪失の悲しみは決して消えることがない。けれど、両手いっぱいに抱きしめていた悲しみを、片手に携えて生きていくことはできる。(意訳)
たとえ心のなかに深い悲しみを持っていても、多くの人がなんでもないような顔で日常を過ごしている。美津江の暮らしもそんなふうに淡々と、時折ユーモアをまじえて描かれる。絶望とは、あくまでも日常のすぐそばに、どうにかして"ふつう"に生きようとする人間のなかに存在するものだ。
『父と暮せば』は、そんな日常の皮下にうごめく絶望(そこにはのこされた人だけでなく、無数の死者の叫びも存在する)をえぐりだし、独りのこされた美津江が、"悲しみを携え"ながら、それでも生きる力を取り戻していく過程を描いた物語だ。
人ひとりが、背負った傷から回復するのに、その一歩を踏み出すだけのことに、どれほどのエネルギーが必要か。美津江には、三年の月日だけでなく、恋という生の喜びを感じるきっかけが必要だったし、自分の生を赦し背中を押してくれる父の幻という存在が必要だった。
未来という希望
自分はしあわせになってはいけないのだと訴え続ける娘への、父の最後の応えは、「未来に託すこと」だった。
「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが。そいがおまいに分からんようなら、もうおまいのようなあほたれのばかたれにはたよらん。ほかのだれかを代わりにだしてくれいや。」
「ほかのだれかを?」
「わしの孫じゃが、ひ孫じゃが。」
美津江にとって、これ以上の希望の言葉など、ないように思える。
自分は生きていていいのだろうか。その答えは何も、今このときに求める必要はない。孫、ひ孫という"未来"に託すように言った竹造の言葉は、娘のしあわせを願う父の思いだけでなく、死者の声の集合体でもあるのかもしれない。
「むごいのう、ひどいのう、なひてこがあして別れにゃいけんのかいのう」
「むごい別れがまこと何万もあった」という記憶を繋いでいくことが、のこされた者に託された仕事だ。そうした"義務"を身に引き受けることで、美津江はようやく、父の「わしの分まで生きて」という願いを受け容れることができ、自分の生を赦すことができたのではないだろうか。
届かなくても、対話を重ね続けること
この演劇を観て胸が痛くなったのは(数日たった今でも痛い)、登場人物に深く感情移入したからというより、戯曲の節々にドキリとさせられたのが大きい。
一つは、救済へと導かれるまでの二人の対話。
美津江の悲痛な叫びを聞きながら、自分だったら何を言えるだろうかと問いを投げかけてみる。
なにも。本当になにも言えないな、と思う。
けれど、その「なにも」ははたして本当に力を尽くした結果なのだろうか。
人の苦しみはその人のものだから、他者が理解することなど到底できない。自分にできることはただ、それでも共感したいと願いながら、かたわらに寄り添うことだけなのかもしれない……。
かつて抱いていた青く切実な思いは、人生経験を重ねるにつれどうしてか形を変え、わたしの苦しみはわたしの苦しみ、あなたの苦しみはあなたの苦しみという、自分と他者との線引きを色濃くさせていったように思う。……いや、線引きはあったっていい、当然あるものだ。大切なのはそれでも、はたらきかけ続けることだ。
美津江の最後の台詞に辿りつくまで、二人の間には絶えず対話があった。美津江(生者)による自らの生の否定と、竹造(死者)による生の肯定。竹造の励ましの言葉は、自分が生きのこったことを「不自然」だと感じている美津江にはなかなか届かない。それでもなお、語りかけ続けてきたから、あのラストシーンがある。救いがある。
安易な慰めや共感を押しつけることはときに暴力になりうるが、わからないから、傷つけてしまうかもしれないからと対話を諦めるのは怠惰にほかならない。
わたしは、当たり障りなくその場をやり過ごすことに慣れすぎていなかったか。変に諦めがよくなりすぎてはいなかったか、目の前にいる人に対して、本当に誠実か。
そんなことを自分に問うと、苦しい。
体験を継いでいくこと
この物語の主眼は、美津江(戦争を体験しのこされた人)の絶望を描くことだけでなく、それを正確につないでいくことの大切さにある。つないでいくには、当然その先に相手がいる。そして多くの場合、それは自分の子どもだ。
子どもは、希望だ。
さんざ都合よく使いまわされて手垢のついたメッセージを、(直接的な言い回しではないにしろ)わたしはたぶん、初めて、素直に受けとめることができた。それは、かつて美津江の世代だったわたしが、いつの間にか(継ぐ相手を持たぬまま)、父・竹造の側へと足を踏み入れ始めている証でもあるだろう。
そう、今回の観劇で深く感情移入をすることがなかったのは、おそらく、30代に差しかかったわたしが、この物語を、美津江と竹造のどちらに寄せて観ればいいのか、わからなくなってしまったからだろう。
その事実は、少なからずショックだった。
わたしは、希望をつなぐ命のリレーに連なる権利を手放しているからだ。子どもを生み育てる予定も、その欲求も持っていない。けれど、そうした人間も、未来に対して決して無関係ではいられないのだと、井上ひさしに突きつけられた気分だった。「生者は死者によって生かされている」「お前も伝えていくのだ」……竹造の言葉の数々に、ずいぶんギクリとさせられた。
むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをおもしろく
そう語ったという井上ひさしの書いた戯曲は、25年以上経ってなお、観る人に訴える力を持っている。無意識のうちに、"安定"という椅子に腰を落ち着けた自分を、否が応でも揺り起こされる。
この物語は、ヒロシマの悲劇を描きながら、決してヒロシマだけの物語ではない。
未来につながるためにどう生きるのか。この先も継ぐことのないわたしは、ふたたび自ら揺らいで、揺らぎ続けて、自分のかたちを見出していくほかないのだ。
参考・引用文献
井上ひさし著, 『父と暮らせば』, 新潮社,2001
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