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そこいら中が、これ以上なにもいらないくらいに、小さくて静かな幸福に満ちていた。
露天風呂に入る。ふと空を見上げると、オリオン座がくっきりと見えた。ひとつふたつみっつ……数えれば数えるほど星が増えていって、気付いたら満点の星空になっていた。秋の星が、わたしたちの頭上にかぶさってくる。
補聴器をしていないわたしの世界は音がなく、心地よい風と星空だけに集中できるまたとない時間。ひんやりとした秋風を浴びながら、ただ何も考えず、ひたすら星空を見上げた。
補聴器は水に弱い。だから当然温泉では補聴器を外す。だというのに、なぜか温泉旅行はきこえる友達と行くことが多い。偶然だけれども。
温泉は好き。でも、補聴器を外した温泉で音をきき取ることは難しくて、相手の口を読み取ることが多くなる。だから、絶えず相手の口元を覗いては、話始めているかを確認して話し始めたら口の形を読み取ることに専念する。
この日もきこえる友達と露天風呂に入っていた。でも、わたしはお風呂に入った次の瞬間に見えた星空に釘付けで、彼女の口元を見る余裕なんて全くなかった。
ただただ空気の澄み切ったこの場所で、秋風を感じながら星を眺める。合間に、ぼうっと光る2両編成の小さな電車が橋を渡る。そんな様子をただただ眺めていた。何を考えるわけでもなく。
そろそろのぼせてきたし、内湯に戻ろうかな。そう思うと、彼女が内湯を指差した。よかった。彼女も同じタイミングで内湯に移動して、あがった。
私達はいろんなものを見て育つ。
そして、刻々と変わってゆく。
そのことをいろんな形で、くりかえし
思い知りながら、先へ進んでゆく。
それでも留めたいものがあるとしたら
それは、今夜だった。
そこいら中が、
これ以上なにもいらないくらいに
小さくて幸福に満ちていた。
(吉本ばなな『TUGUMI』)
お風呂から上がって部屋に帰っても、あの星空の余韻が消えない。あの静けさの中で見た星空が……。
と思うと同時に、ちょっと心配になった。露天風呂で、わたしが発した言葉といえば「あっ……」と「きれい……」くらい。全く会話をしていない。彼女はわたしに、何かを話しかけていたんじゃないか。全部無視してしまったかもしれない。イヤな思いしなかったかな。
でも、確かめようと思った時にはもう目の前が微睡んでいて、気付いたら朝だった。
帰り道、電車に乗っていると目の前のドアからカメラマンとリポーターらしき2人組が乗ってきて、わたしたちの前で止まった。どうやら地方番組の特集らしく、わたし達は突然インタビューを受けることになったみたいだ。
わたしたちは学生時代からの友人で、休みが重なったから旅行に来たこと。関東と関西からそれぞれやってきて、またそれぞれ今住む街へ帰っていくこと。そんなたわいもない会話をした最後にリポーターが彼女に質問した。
「この旅行でいちばんの思い出はなんでしたか?」
その質問に、彼女は迷うことなく
「昨夜露天風呂から星空が見えたんです。とってもきれいで。あの星空がいちばんの思い出です。」
こう答えた。
心がふわっとあったかくなって、引っかかっていた何かがスルッと抜けていった。
言葉は交わさなかったけれど、お互い同じ場で同じ星を見て同じように美しいと思った。静寂のあの空間を、同じように愛しんでいた。
なんて幸福な夜だったんだろう。
いつまでもそこにとどまっていたかった。
でも、そんなわけにはいかず。
次の駅で電車を降りると、お互い逆方向の新幹線の切符を買って乗り込んだ。
あの夜の満点の星空という宝物を心に留めながら。
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