毎日眠りにつく前にそっと、今日のわたしをおもしろがれる余地を、綴っていきたい。
noteの毎日更新をリスタートしてから、これで20記事目。
「調子がいいのかな?」なんて見せかけて、実は、ここ最近のわたしの体調は、すこぶる良くない。6月は自分の不調を騙しながら働いてたんだけれども、7月にはついに時差勤務の申請をして、ここ最近は在宅勤務に切り替えた。
わたしの右耳は全く聴こえていない。そのせいか三半規管もまた、とっても弱い。その辺の遊園地でも、コーヒーカップを見て「目が回りそうだよね」と笑う友人の横で、本当にめまいを起こして係員さんに支えられながらベンチに移動する程度に弱々だ。
そんなわけで、今年の梅雨は気圧の高低にやられまくっていて、文字通り起き上がれない日もあった。「できるはず」なのにちょっと調子が良いとすぐに気圧に左右されて、仕事も満足にすすめられない。
とにかく何もできなくて本当にしんどかったんだけれども、もはや「何が」しんどいのか分からないくらいに体調が悪かったもんだから、自分のしんどさの原因が見えない不安に負けそうになっていたのが正直なところ。
そんなタイミングで、「noteをはじめて2年記念日だから」と今考えていることをとりあえずnoteの画面にまとめていたら、1週間もするうちに自分の気持ちがスッと整理できることが増えてきた。
梅雨が明けて、今度は台風がやってきそうなもんだから、相変わらずしんどさはある。でも、気圧の高低でのしんどさで体調に自信がなくなっている今、職場の人たちに迷惑をかけていることに対する引け目もあってか、きこえにくくて分からなかったことまでもそのままにしがちだったかもしれないということに気付き始めた。
雑談の始まるタイミングが、分からない。ことなんかも、普段なら「えー?なんお話ししてたんですか?」とか気軽に尋ねることができたのに、十分な体調じゃなくて周りのサポートも受けている上に雑談には入れなくて寂しいなんて言うことが、わがままなんじゃないか、なんて思ってしまったんだと思う。
でも、家からオンラインでミーティングに参加していても「sanmariちゃん、伝わっている?」と会議の内容がわたしでも読み取れているか確認した上でミーティングが進んだし、誰かが途中で電話に出ると「今、こんな内容の電話をしているよ」と共有してくれる環境があって。
今日は1週間ぶりの出勤日だったんだけれども、なんなら「明日からまた天気が悪くなるみたいだし、在宅にして正解だねー。体調に合わせて働き方を工夫してくれるから、こっちもやりやすいよ。」なんて言葉をかけていただいてしまった。
そして、「あなたのきこえ方はあなたにしか分からないんだから、ここが分からない!とちゃんと言ってくれた方がわたしたちも働きやすいのよ。」なんて言われて、変な我慢は、お互いにとって良くないことだったんだなと気付いた。
そりゃ、わたしだって周りの人がしんどそうに働いていたら、見ているだけでしんどくなってしまう。心や身体がパリンと割れてしまう前に、その日の嬉しかったkとやほっとしたこと、ちょっぴりモヤモヤしたことを言語化していくってすごく大切なんだな。
noteはわたしのイマの気持ちを等身大に綴っているものだし、いろんな人が読んでくれるものだから、未来の自分が読んでいて落ち込むことばっかり書くのは嫌だなと思っている。実際に「嫌なことしかなかった日」なんて、滅多にない。
ご飯が美味しく炊けたとか、憧れのライターさんからnoteにスキをもらえたとか、たった500円特急料金を払っただけで贅沢な気分になったとか。なんでもない日常の中に、でも、わたしにとって特別なことたちが転がっている。
確かに、そりゃしんどいこともあるけれど、そんな、押しては引いて寄せては返す波のような日々の中で、これまた音の世界と音のない世界を行ったり来たりしながら、それを楽しんだりしんどいと思ったりしているんだと思う。
この前大切な友人が、いかに人生を面白がれるかはinterestにかかっている気がすると言っていて、まさしく共感したところで。つらいこともよかったこともわたしがわたしをおもしろがってあげる余地を作れるのが、文を綴る良さなのかもしれない。
文章を綴っていると、自分のことなのに、どこか別世界の主人公の日常をなぞっているような気持ちになれる。赤毛のアンほどお花畑には浸れないんだけれども、でも、アン・シャーリーの自分の人生をどこか客観視しておもしろがれるあの思考は、結構好きだ。
今日も眠りにつく前にそっと、今日のわたし自身の生活の中にある「余地」綴っていくこの習慣を大切に、この夏を乗り越えていこうなんて考えながらnoteを書いている。
ううう。気圧が下がってきたぞ。