写真がわたしにくれるもの
この写真をみたとき、わたしはふわっと雪国に舞い込んでしまったのではないかと錯覚した。しんしんと雪が降る中、電車が去ってしまったホームに一人佇む。この瞬間を、この白い世界を、頭の中でトリミングしてカメラを構える。
カシャ
シャッターを切った瞬間、もとのわたしの部屋に戻ってきた。
いや、正確には、わたしはこの場所に行ったことはない。でも、この写真をみた瞬間、わたしの意識はこの写真のシャッターを切った瞬間にワープした。そんな気がしたんだ。
我に返ったわたしは、思わずこの写真を撮った菜生さんに
「この写真、好きです」
とメッセージを送った。もっと気の利いた言葉が見つからないものかと悩んだけれど、そんなものは見つからなくて。本当に大事なことって、一言にして言えないのかもしれない。そんなことを考えていた。
写真を残したい。そう思ったきっかけは、祖母と曽祖母の死。小さい頃からかわいがってもらい、大学の4年間ともに生活した祖母と曽祖母が相次いで亡くなった。2人との記憶はたくさんあるけれど、手元にある写真は昔のフィルム写真かわたしの残した入院生活(しかも母への記録用)ばかり。元気な姿を写した写真を、想像以上に持っていないことに唖然とした。
わたしの大切な人たちとの日々を、生きた証を、残していきたい。
そんな中、夏に写真展に誘っていただいた。
本格的にカメラを始めたのは最近だし、と尻込みしていたけれど、優しい仲間に後押しされてわたしも出展してみた。
旅先での思い出を2枚。
それまで、写真はわたしの個人的な記録、もしくはnoteのヘッダー素材くらいの感覚だった。だというのに。
この写真をみた母の友人から
この写真、すごく好き
そう言ってもらったその瞬間に、ちょっと世界が変わった。
思えば、この写真を撮った瞬間の私の思いはただひとつ。
この一瞬を、忘れたくない。
この「忘れたくない」には、そのときの言葉にできない心の動きがあって。言葉にはできないけれど、その瞬間は忘れたくない。だから、「すごく好き」って言ってもらったときに、そんなわたしの内言された言葉を共有してもらったような気がしたんだ。わたしの思い上がりかもしれないけれど。
言語は世界の限界である
内言された言葉をも伝えられる写真はきっと、言語のひとつなのかもしれない。
そう思ってからは、積極的に写真を撮るようになったし、好きだなと思った写真は好きだと、相手に言葉にして伝えるようにしている。
だって、「好き」は言葉にしないと伝わらないもん。あと、伝えてもらう嬉しさとくすぐったさを知ってしまったので、ね。
これからも、わたしとわたしの大切な人の生きた証に、そしてわたしのもつ言語のひとつとして写真とうまく付き合っていけたらいいなぁ。
【追記】
このnoteは、わたしの所属するオンラインコミュニティ .colony #ときめく写真の作り方 まいにち日記部の11月共通テーマ企画として書きました☺︎