聴覚障害のあるわたしの、ことばたちとの付き合い方 episode2〜手話で思考するわたしも、日本語で思考するわたしも〜
わたしには聴覚障害があるけれども、片耳の聴力がまぁまぁ良かったことや特別支援学校ではない一般の小中高等学校で育ってきたこともあって、母語は日本語だし、ちょっと舌ったらずな程度でだいたいの日本人が聞き取れるような発音で喋ることができる。
母語というのは、ある人が幼児期に周囲の人が話すのを聞いて自然に習い覚えた最初の言語を指すらしく、聴覚障害者には「手話」という言語があって、この「手話」を母語とした人もたくさんいる。
18歳まで日本語だけの環境で育って、高校卒業くらいのタイミングで手話を知り、使いはじめたわたしにとって、手話は第二言語という立ち位置がちょうど良いなと思っている。
そして、手話を使い始めた大学時代は、同級生にも先輩にも後輩にも手話を母語とする友人がたくさんいた。だから、会話の中から自然と手話を習得することができたし、アカデミックな討論を手話という見て分かる言語で積み重ねることができた。
今でも日本語で思考したことをこうやってnoteに書き記すことが好きだし、聴こえない友達と手話で思いっきり話す時間も好き。どちらが好きとかどちらが楽とかそういう優劣は特になくて、どちらもわたしにとって大切な言語だし、なくてはならない言語だと思っている。
そんなわたしだけれども、ここ最近気付いたのが、言語を跨ぐごとがものすごく苦手ということ。
手話で思考したことを日本語で伝えようにも的確な日本語が出てこないし、日本語で考えたことを手話で伝えようにも日本語に合わせて手話単語を表しているだけで、手話としての文法がぐっちゃぐちゃになってしまう。
たとえば、手話を共通言語としてもっていふ聴覚障害者同士で話をしているときのわたしは音声を発することはほとんどなくて、手話の文法でわりと流暢に話をすることができる。(この話というのは、相手の話を読み取ることとわたし自身が手話の表出をすることの両方を意味する)
頭の中の思考は
で、英語で例えると
と、イメージとその言語が対応して思い浮かぶ。
決して
のように間に日本語を挟むことは絶対にない。
英語を英語のままに思考して発する英語圏の人たちと同じように
手話を手話のままに、日本語を日本語のままに発する。
こんな感じでとにかく言語を跨ぐことはとても難しいなぁと思うのだけれども、大人になった今も、わたしの周りには日本語を母語とする友達がたくさんいて、手話を母語とする友達もたくさんいる。
だから、手話で思考することも日本語で思考することも、わたしの生活のすぐそばにあって、どちらもとても楽しい。
さらには、日本語を母語とする友達(聞こえる聞こえない問わず)手話に興味をもってくれる友達や、手話を母語とする(これは圧倒的に聴覚障害者に多い)けれど日本語のおもしろさも知っている友達が周りに多いから「手話だとこんな感じだと思うんだよね」とか「日本語だとこんな感じだと思うんだよね」とか言っても通じてしまうことがしばしばある。
どちらもわたしにとって大切な言語だから、どちらかに絞ることもできないし、どちらも尊重してくれる人たちに囲まれているからこそ、どちらの思考をしている自分のことも認められるんだろうな。
これからも、手話で思考するわたしも、日本語で思考するわたしもどちらも好きでいられるといいな……と思い続けていられるように、手話で思考する時間も日本語で思考する時間もバランスよく取れる環境を選択して生きていきたいな、なんて贅沢なことを考える低気圧火曜日の夜。
この気圧の変化は、あと丸一日は続くらしい。みなさんご自愛を。